巡り会う奇跡を道標にして・Rufus



 目を開けたとき――
 見えたのは空だった。
 ミッドガルの、どんよりと曇った空。
 
 ひどい刺激臭がして咳き込むと、体中が痛んだ。
 口の中に鉄臭い物が溢れ、吐き出そうとしてまた私は咳き込んだ。

 耐えがたい熱気と煙が、足下から押し寄せる。
 ここにいてはいけない。
 起き上がろうとして、身体の自由が利かないことに気づく。
 強烈な痛みだけが手脚の存在を主張している。
 震える腕を支えにして僅かに身体を起こすと、そこは瓦礫の山と化した社長室だった。
 あれほどに望んだ社長の椅子は、ねじ曲がり焼け爛れて机と同化していた。
 その向うに炎を見て、とにかく少しでも遠ざかるべく肘を使って這った。
 身体に張り付いた服地が、皮膚と共に剥がれ落ちる感触。
 身を苛む痛みだけが、私はまだ生きているのだと実感させる。
 咳き込む度に吐き出した血が、床に流れを描く。
 永遠とも一瞬とも思える時間の後、私はこれ以上指一本動かすことが出来なくなっている自分に気づいた。

 目が霞む。
 もう、熱気も異臭も気にならなくなっていた。
 最後の力を振り絞り、なんとか仰向けになった。
 ここで死ぬのなら、せめて空を見ながら死にたいと思ったのだ。
 この本社ビルに長く閉じ込められていた。
 窓もない部屋に。
 そこから出ても、相変わらず私はこのビルに閉じ込められたままだった。
 自ら望んだ社長の椅子が、私を縛る枷だった。
 そのことに後悔はない。
 だが、最期くらいここから逃れたいと思ってもいいだろう。
 このビルからも、神羅の名からも、解放される。
 この苦痛と引き換えに。
 
 これで終りか

 意外と早かった――
 僅かに自嘲する笑みが、頬に浮かぶ。
 実際には表情は動いていなかったかもしれないが、自身の気分としてはそうだった。
 結局、何も出来なかった。
 かといってこんな形で終わるのが不本意だ、とも思わなかった。
 所詮人間に出来ることなど限られているのだ。
 だからセフィロスは人間以上のものになりたかったのだろうか。
 よくわからない。
 私はただの人間だ。
 神羅カンパニーは、人間が作った人間のための組織であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 それを、もっとわかりやすい形に立て直したいと、私は思っていた。
 だが、それももうあまり意味のないことになったのだろう。

 あの星が――
 移動したことで、霞んだ視界の隅に赤い凶星が入ってきていた。
 あれが墜ちてくれば、ほとんどの人間は死に絶える。
 もし、クラウドたちがセフィロスを倒しメテオの落下を阻止できれば、ずっと多くの人々が生き延びるだろう。
 それにしても、おそらくミッドガルは激甚な被害を被るであろうし、その外の世界も無傷ではすまないだろう。
 
 何一つ、間に合わなかったのだなあと、他人事のように思った。
 
 痛みは少しずつ遠のいていた。
 代わりに私が感じていたのは、ひどい息苦しさだった。
 息をする度に、胸の奥でごぼごぼと濡れた音が響いた。
 それも次第に遠ざかる。
 私は目を閉じる。
 これでもう、何も思い煩うこともなく眠れる。
 たった一つ、死が約束するのは永遠の安息だ。
 その冥い腕に抱き取られて、二度と目覚めることのない眠りを貪る。
 そう思ったとき、ちらりと浮かんだイメージが今一度意識を浮上させた。
 黒い服と黒い髪の男の腕。
 ここが彼の腕の中だったら良かったのに。
 ふとそんな気持ちが湧いた。
 思ってもみなかったその感情は、とても暖かく感じられた。
 そうか。
 私が切り捨て、置き去りにしてきた柔らかく傷つきやすい感情は、ずっとあの腕の中にあったのだ。

 それで十分だと思った。
 


■■■
 


 気づくと暗い場所に立っていた。
 遙か向うに、青白い光が見える。
 あそこへ行かなければならないのだと思った。
 歩き出そうとしたが、上手く脚が動かない。
 立っている場所は真の暗闇で、自分の手も見えなかった。

 どの位の時が過ぎたのか。

『…ルーファウス…』

 呼びかける声が聞こえた。
 はっとして顔を上げたが、やはりなにも見えなかった。
 だが、肩に置かれた大きな掌の感触が、その声のぬしの存在を認識させた。
 掌は温かく、重かった。
 それで私は、自分が小さな子供であることを思い出した。

『ルーファウス』
 声が呼ぶ。
 振り向きたかったが、同時にひどく怖ろしくて動きたくなかった。
 まとわりつく闇。
 頭上から響く声。
『おいで。ルーファウス』
 声が命じる。
 動きたくはなかったが、動かなくてはいけないと思った。

 だが振り向こうとした私を、別の声が引き止めた。

「ルーファウス様」
 
「つぉん?」

 舌足らずの高い声が出た。
 初めて会った頃私はもう幼児ではなかったが、その名はひどく発音しづらく、慣れるまでしばし時間を要したのだった。
 そんなことを思い出す。
 少しずつ、自分の輪郭がはっきりする。

「ルーファウス様。こちらです」
 声のした方に目をやったが、やっぱりなにも見えなかった。
 途惑っていると、後方からも声がかかる。

『ルーファウス、おいで』
 その声を聞くと、身体が震えた。
 厭わしく、怖ろしく、恋しい。
 己に吐いてきた嘘が、己を糾弾する。

 ――おとうさん

 私は貴方の死を願っていた。
 貴方から解放されたいと思っていた。
 貴方が殺されたときも、涙一つ流さなかった。
 貴方に愛されたかった。
 貴方に愛されていると、実感したかった。
 
 小さい子供の私は、自分の感情を持てあます。
 ひどく苦しくて、切なかった。
 泣けばいいのだと思ったが、泣き方がわからなかった。
 
 突然、手を掴まれた。
 冷たいごつごつした掌は、華奢な子供の手をすっぽりと覆う。
 驚いて手を引こうとすると、
「ルーファウス様。こちらへ」
 ツォンの声がそれを止めた。
 その手は冷たいのに、その冷たさが心地よかった。
 ツォンの手に引かれると、脚が動いた。
 引かれるままに歩き出す。
 足下で濡れた音がぴちゃぴちゃと響いた。

 ツォンの手は私の顔くらいの位置にあり、私はよくこうやって本社内を歩いたと思い出す。
 ツォンにしてみれば、私がやたらなものに手を出したり、社員の仕事の邪魔をしたりしないようにとの思いだったのだろうが、そんなことは私にはもちろんわかっていた。
 それでも手を繋ぐのは嬉しかったので、黙っていた。
 知っていたか? ツォン。
 
 どこかで水の滴る音がする。

 疲れて歩きたくなくなると、ツォンの声が励ましてくれた。
 いつのまにか、父の気配はなくなっていた。



■■■



 最初に戻ってきたのは、痛みだった。
 不愉快なことに。
 そして聴覚と視覚が。
 
 私は生きているのか。

 幸か不幸か。
 明日を思い煩う生活が、戻ってきたらしかった。
 それでも居並ぶ顔の中にツォンを見つけて、それもまた悪くないと思っている。
 
 もうしばらくあがき続けろと、これもまた星の意志とやらなのだろうか。
 ならばそうしよう。
 人に何が出来るのか、それを知るために。

 おまえたちがそこにいてくれるから。
 
 ここからもう一度。

end RufusSide


この話の元になった落書き