巡り会う奇跡を道標にして・Zeng



 運び込んだストレッチャーを床に固定すると、ただちにヘリは飛び立った。
 本来ならば数人分の担架を運べるはずのヘリだったが、運び込まれたのはひとつだけだ。
 これは、一般の救助隊に混じってその実、ただ一人だけを救助するために編成されたチームだったからだ。
 医師達が手早く救急救命処置をする傍らで、ヘリを誘導してきた黒い制服の男は唇を噛み締めてその様子を見つめていた。

 揺れるヘリの窓からも、この魔晄都市に迫った凶星の姿は間近に見られた。
 その星が墜ちれば、すべては灰燼に帰すだろう。
 世界の終焉を目近に突きつけられても、今ここで死の淵を彷徨う人の生死以外のことはどうでもよいと思ってしまう自分に罪悪感を抱く。
 彼は決してそんなことを望みはすまい。
 だが。

 意識のない人の手を握り、懸命に呼びかける。
 その手は冷たく、呼吸は浅く速い。
 ショック状態にあることは、明白だった。
 助け出されるまでの時間経過を思うと、どれだけ後悔してもしきれない。
 残骸と化した社長室の床には、おそらく一度は意識を取り戻したのであろうこの人が、その場から退避しようとした痕跡が顕わに残されていた。
 引き摺られた血の跡が。
 立つことはかなわなかったのだろう。
 何を思い、どれだけの努力を払ってその僅かの距離を移動したのか。
 彼のその努力は無駄ではなく、救助されたときはぎりぎりのところで迫る炎を回避しえていた。
 だがその行動が彼の体力を極限まで奪ったであろうこともまた、明白だった。

 
 満身創痍のルーファウスがようやく目覚めたのは、ミッドガル崩壊から3日、社長室被弾からは10日後のことだった。

「ツォン…?」
 足下に控えた彼のタークス主任を認めて、包帯で覆われていない片方の瞳が僅かに見開かれる。
「はい。社長」
 その瞳に疑念と歓びが交錯したのは一瞬、すぐにそれは毅く冷徹な意志に取って代わられる。
「おまえ、いつ…いや、…今は何時だ。セフィロスはどうなった…メテオは?」

 矢継ぎ早の質問に、ツォンは目眩いがした。
 ようやく人工呼吸器が外されたばかりだ。
 声は擦れ、咳き込みながらの言葉はひどく聞き取りにくかったが、質問の内容は違えようがなかった。
 それは、ルーファウスが目覚めたとき発するであろうと誰もが予想していた言葉を何一つ裏切らぬものであったからだ。
 だが彼の身体の状態はおそらく彼が思うよりずっと悪い。
 2度の心停止を乗り越えてようやく安定した容態に持って行けたと、医師達が安堵したのはつい一昨日のことである。

「社長、今はまだもう少しお休み下さい」
 精一杯の懇願を込めて、ツォンはルーファウスを宥めるように語りかけた。
 だがそんなものは当然一蹴される。

「私の質問に答えろ」

 意識がある限り、この方は納得しないだろう。
 それでもおそらく、こんなにはっきりと意識を保てる時間はそう長くないに違いない。
 ツォンはひとつずつルーファウスの疑問に答えていった。
 痛みがあるのか、衰弱のためか、ルーファウスは瞳を閉じ眉間に微かな皺を刻んでツォンの言葉を聞いていた。
「ミッドガルの現況は? ジュノンはどうなっている。被害の詳細な調査は進んでいるのか」
 紡がれる言葉は、喘ぎにかき消されがちだ。
 ルーファウスの望むような答えは返せない。
 事実上、現状の把握はほとんど成されていないに等しく、崩壊したミッドガルは立ち入ることさえ危険な状態だった。
 通信は分断され、世界各地の情報はヴェルド率いるかつてのタークス達によってもたらされるものだけがかろうじて信用できる、というレベルだ。
「まだ情勢の分析も十分ではありません。今少し落ち着けば」
 本当に落ち着いて欲しいのは世界の情勢などではない。あなたの容態だ、と言いたいツォンの気持ちとは正反対に、ルーファウスは己のことなど眼中にない。
「馬鹿を言うな! 今、行動しなくてどうするのだ。二次被害が大きくなる前に食い止めることを一番に考えろ。治安の状態はどうだ。食料は…」
 ルーファウスは動かない身体に苛だつように繃帯だらけの腕を振り、怒りを顕わにする。
 だが、急激な動作も大声を上げることも、今の彼には負担が大きすぎた。
 その身体が痙攣するように引き攣り、苦しげな呼吸はとぎれがちになる。
 周りを囲んだ医師達の動きが慌ただしくなり、その胸に繋がれた点滴に新しい薬品が注がれた。

 そして、ルーファウスは何事か言いかけたまま瞳を閉じる。

 周囲にいた人間達は一様にほっとした。

 ベッドに起き上がることもできぬほどの重傷だ。
 骨折箇所は二十を越え、火傷は全身の三割以上に及んでいる。内臓の損傷も酷く、容態はいまだ楽観を許さない。
 そんな状態にもかかわらずルーファウスの怒気は室内の空気を切り裂く程激しく、その場にいた者すべてを圧倒した。
 カンパニー社長としてあの社長室に君臨していたときにも、見せたことのない程の峻烈さだった。
 ツォンでさえ、首を竦めたくなるほどの威圧感だったのだ。
 
 だからその瞳が閉ざされ、その声が耳には聞こえぬ微かな残響を残して部屋から消えたとき、その場に居合わせた者たちは一斉にため息をつき、肩の力を抜いた。
 図らずもそれは、ルーファウスが指導者としてどれほど相応しくかけがえのない存在であり、今彼を失うことがどれほどに回復しえない損失であるかを如実に示す結果となっていた。

 ここは、元カンパニーのスタッフを中心に作られた研究施設であり、本来は病院ではない。
 だが、荒廃したミッドガルにあって、高度の医療水準を維持し自家発電と給水設備を備えた施設はここより他になかった。
 そしてこの施設自体も、もともとルーファウスの指示によって造られたものだと、ツォンたちは後から知ったのだった。
 だからここのスタッフたちは、ルーファウスに対してカンパニーの社員達よりも忠誠心が厚い。
 ツォンはその中に、かつてまだルーファウスが幼子であった頃、マテリアについての研究を依頼した男の顔を見つけて驚いた。

 いつからか、68階の研究室にいた優秀なスタッフ達の姿が見えなくなったことはなんとなく承知していた。
 だがそれは、まさにマッドサイエンティストと言うに相応しかったあの研究室の主人に耐えかねて出て行ったものだと、単純に思っていた。
 そのスタッフ達を引き抜き、ここにカンパニーから独立した施設を建設し運営していたのがルーファウスであったとは、ここへ来て初めて知ったことだ。
 いったいいつ頃から、彼はそんな行動を取っていたのだろう。
 自分はそんなルーファウスの行動を、何一つ知らされていなかったのだ。
 おそらくヴェルド主任は、かなりの部分を把握していたのだろう。
 だからタークスを去るとき、副社長の命令には無条件で従えと言い残していったのだ。
 どれだけの信頼が、彼らの間にはあったのだろうか。
 この場にはおよそ相応しくない嫉妬が、ちりちりと胸を噛む。
 今現在、生死の境を彷徨っている愛しい人に対して、そんな嫉妬を抱く意味がどこにあろう。
 彼の命が失われれば、何もかもが意味を失う。
 ツォンの生きる意味さえも。
 否。
 そうではないだろう。
 ルーファウスがいなくなっても、世界は残る。
 彼が、『私の世界』と言っていたそれは、酷く傷ついた状態のまま残されるのだ。
 その復興のために尽力することは、カンパニーに関わり、ルーファウスに関わった者たちすべての義務として科せられている。望むと望まざるとに関わらず。
 現にこの施設も今、できうる限りの怪我人を受け入れている。
 その志の高さは、神羅カンパニーが決してテロリストの言うような悪辣なだけの組織ではなかったことを示している。
 多くの社員達は、人々の暮らしを支える仕事を日々営々と営んでいただけなのだ。
 タークスでさえ――カンパニーの中枢近くにあって、その裏側を支えていた自分たちでさえ、この世界と人々の暮らしを護りたいと、本気で願っていたのだから。

 もう少し―――
 もう少し時間があったなら、この方は望んだ世界を実現することができたのかもしれない。
 そう考えれば、まるで生き急ぐようだった彼の行動のすべてが思い返される。
 どうして誰も、もっと彼の言葉に耳を傾けてやれなかったのだろう。

 自分もまた―――

 まだ子供のくせに。
 今少しが何故待てないのか。
 誰もがそう言っていた。

 実の父を亡き者にしてさえと―――彼がカンパニー総帥の座を望んだことに対し、非難以外の声を聞いたことがない。
 それは決して褒められたやり方ではなかったにしろ、そしておそらくは彼自身も成功を望んではいなかったにしろ、彼にそんな行動を取らせた理由をただ親子の不仲だと考えていた自分たちはなんと浅はかだったろう。

 この方は、世界の支配者たることを約束されていたのではない。
 それは生れたときから彼に科せられた重荷だった。
 進んで引き受けたものでもなく、自ら選び取ったものでもない。
 世界を背負うことは彼の存在と判ちがたく結びつき、それが自らの望みなのか投げ出すことのできぬ苦役なのか、彼にはわからなかったろう。
 誰一人、『神羅カンパニーの後継者たるルーファウス・神羅』であること以外を彼に期待した者はなかった。
 カンパニーの総帥となることだけが、彼に許された唯一の存在意義だったのだ。
 
 だから今、命さえ危ぶまれる病床にあっても彼が心にかけるのはそのことだけだ。
 
 ヴェルド主任は、おそらくそんなルーファウスの内実を一番よくわかっていたのだろう。
 だから、彼等の間にあった信頼を自分は勝ち得ることができなかった。
 つまらぬ嫉妬に振り回され、本当の彼の姿を見ようとしなかったから。

 だが。
 そう望んだのは彼自身だったのではないか、とも思うのだ。
 この方がヴェルド主任に求めたものと、自分に対して求めたものはきっと違っていた。
 理解されることを――この方は望まなかった。
 そんな気がする。
 だから彼は自分との距離を、微妙なバランスで保ち続けていた。
 それはきっと正しい。
 彼が自分に望んだものは、むしろそのむき出しの感情であり、理解や抱擁といったものではなかった。
 それは自分も判っていたのだ、と思う。
 意識の表に出して認識することはなくとも、彼に望まれている役を引き受けることで彼の満足を得たいと。
 そんな駆け引きが、自分たちの間には確実に存在した。
 時折その合間から零れてくる彼の本音こそが、愛おしかった。
 
 だが、それとこれとは話がまた別だ。
 今、ここで生命の危機に瀕している彼を見守ることの耐え難さとは。
 今少しでも、彼の力になることは出来なかったのか。
 その後悔は、決してぬぐい去ることは出来まい。

 一度意識を取り戻したきり、ルーファウスの容態は一進一退を続けていた。
 彼の言ったとおり、世界は迅速な救いの手を必要としており、そのための仕事は幾らでもあった。
 だが、ツォンはその多くを部下に遂行させ、自身はルーファウスの傍らを離れようとしなかった。
 彼が市中へ出向いたのは、メテオ落下直前、まだ市内に残る住民の避難を誘導したときだけだ。
 部下達はむしろそんなツォンを痛ましそうに見守っている。
 レノは決して病室に立ち入ろうとしなかったが、時間が空けばいつでも廊下の椅子に座っていた。護衛だと言っていたが、この施設の中でそれほどの警戒が必要なはずもなく、自分たちを見張っているのだとは言われずとも知れた。
 ルードはほとんど姿を見せない。不器用な彼らしく、ひたすら任務に励むことで社長の期待に応えようとしているようだった。
 イリーナがレノの肩に額を押し当てて泣いている姿を見かけてしまった。
 タークスに入って二月足らずの新人だったが、今までの誰よりも過酷な任務に耐えてきた彼女が。
 彼等に負担を強いていることはわかっていた。
 それでも、ルーファウスの側を離れることが、ツォンには出来なかった。
 この手を放したら、取り返しのつかぬ事になるのではないか。
 バカバカしい強迫観念だと思っても、今はただ、細い指を握りしめて祈るしか出来ることがない。
 
「主任。少し休まれた方が良いです」
 廊下へ出ると、丁度戻っていたイリーナに捕まった。
「いや。イリーナこそ休んでおけ。明日はまたジュノンへ飛んでもらわねばならんからな」
「でも…!」

「オレ、オレが行きますよ、と。ジュノン」

 押し問答をしていると、レノが割って入った。
 そこにレノがいたことすら気づいていなかった我々は驚いたが、レノは笑って続けた。「ジュノンへ行って、それから周辺の様子もちっと見てきますよ、と」
「…そうか」
 正直、レノの申し出はありがたかった。
 どう頑張っても新米のイリーナよりレノの方が情報収集能力は遙かに上だ。命じた以上のことをこなしてくれるだろう。

「社長が頑張ってるんだから、オレ達も頑張らないと」
 レノの言葉は、真っ直ぐ胸に飛び込んできた。
 その笑顔が、これほど頼もしく見えたことはなかった。

「…そうだな」
 そうだ。
 あの人はたった一人で戦っている。
 彼が目を覚ましたとき、恥ずかしくないだけの成果を提示できなくて、なんのタークスだろうか。

「先輩にしちゃ、いいこと言いますね」
 イリーナは茶化すように言ったけれど、涙声だった。

 社長――ルーファウス様。
 貴方は、こんなにも皆に望まれている。
 我々タークスだけでなく、ここで働く者たちや、各地で復興を支える者たちにとっても、貴方は希望そのものだ。
 そのことは――
 貴方の生きていく意味になりはしないだろうか。
 この世界で、これからも。


 再びルーファウスの意識が戻り、しっかりした声でツォン達に

「皆無事で良かった」

 と語りかけたのは、翌日のことである。

end――ツォンSide