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「それでこういうことになるのか?」
ルーファウスの声は少しばかり掠れているが、それがまたなんとも艶っぽい。
掠れているのは今の今までさんざん嬌声を上げていたからだ。
「お嫌でしたか」
「まさか」
ルーファウスは笑う。
「あれで」
軽く顎を上げ、部屋の隅に伏している黒い塊を見やった。
「おまえが積極的になるなら、もっと拾ってきてもいいくらいだ」
「とんでもありません」
「逆だろう、馬鹿者。そんなものは無くとも積極的になります、と言えないのか」
「……」
なんとも答えようのない問いかけをされて返答に詰まるツォンだ。
決して自分が消極的だとは思わない。ただ、ルーファウスの体調のことなどを考えると、この行為に対してどうしても及び腰になるのも事実だ。
「考えるな、馬鹿」
また馬鹿と言われてしまった。
「ではもう一度、というくらいの甲斐性はないのか」

しかしこれはそんな風に偉そうに要求されるべきことなのだろうか?

沈黙してしまったツォンに、ルーファウスは大げさなため息をつく。
「まあいい。私も疲れた。今夜はもう寝む。来い、ダーク」
「!」
ツォンが口を開くより早く、ルーファウスがぽんぽんと叩いたベッドの上に、黒い塊が弾むように飛び乗ってきた。
「おやめください!」
「うるさいな。おまえが一緒なのだからいいだろう。なあ、ダーク」
見た目仔犬のそのモンスターは、ルーファウスを見上げて首をかしげた。
「それとも犬をベッドに上げるな、などとドラマの母親のようなことを言う気か?」
くすくすと笑いながら言うルーファウスはひどく楽しそうだ。
こんな笑顔は滅多に見ない。
しかもいつの間にかモンスターを『ダーク』と呼んでいる。失った護衛の身代わりと思っているのだろうか。その心情はわからなくもないが、まだこれが安全と決まったわけではない。
もし何らかの危険の兆候があれば、始末せざるを得ないのだ。その時彼を傷つけることになりはしないかと思うと、それもまた気が重いのだった。

ツォンの気鬱をよそに、ルーファウスは傍らに獣の高い体温を感じながら眠りに落ちる。もう片側には男の体温を。
これはなかなか悪くない、とルーファウスは思う。
ツォンと違って、ルーファウスは獣の忠誠を疑っていない。隣に寄り添う男の忠誠を疑わないのと同じに。
なぜなら彼は、かつて聞いた記憶があるからだ―――ツォンたちに告げなかったのは今ひとつ確信が持てなかったのと、単なる嫌がらせだ―――ダークネイションには予備があると。
当時はあまり関心もなく聞き流していたが、何体か同時に作られた個体には、情報を共有する能力があるのだという。それはもともとモンスターには原始的なものが備わっている能力らしいが、もっと精度を上げて使えるようにしました、とダークネイションを引き渡しに来た研究員は胸を張った。予備の個体は保管してあります、とも言っていた。
ならばなぜダークが死んだときに次の個体が用意されなかったのかは、わからない。
あの当時は何もかもが混乱を極めていて、特に本社の科学研究部門は逃げ出したジェノバに襲われ、アバランチを名乗るクラウド達の襲撃を受けてかなりの被害が出ていた。もしかしたら、あの研究員も犠牲者の一人だったのかもしれない。
それを追求して調べるほど、ルーファウスは暇ではなかった。予備のことはうやむやになったまま、カンパニーは崩壊した。
だがこれがその『予備の個体』であることはほぼ間違いがないだろうと思う。
最初はただ『似ている』と漠然と思っただけだったが、今は確信している。
どこに保管されていたのかわからないが、どのタイミングでかそこを抜け出して、ルーファウスを捜し求めてきたのだ。
けなげだなどと思うのはおかしいのかもしれないが、今自分の横でなにやら思い悩んでいるこの男と同じように愛しく思う。
そう言ったら、この男はどんな顔をするだろうか。
一人想像して、ルーファウスはこっそりと笑った。

  
翌朝ツォンが起き出してもまだルーファウスは目を覚まさなかった。日頃眠りの浅い人なのに珍しい。やはりあんなことを言っていても昨夜は相当体力を消耗したのだろう。
もう少し寝かせておこう、とツォンは思う。
獣は相変わらずベッドの隅で丸くなっており、ちらりとツォンを見上げたきりまた目を閉じていた。
とりあえず危険はなさそうだ―――と判断して部屋を出た。

急ぎの仕事を片付けながら通信の対応に追われていると、ルードがやって来た。時間を確認し、レノとイリーナは朝一でエッジへ出向く予定になっていたことを思い出して、
「ルード、社長にコーヒーを差し上げてくれ。もう起きておられるだろう」
と電話片手に命じた。
ルードは重々しく頷き、キッチンへ向かう。
ずっと体調のよくなかったルーファウスは自室で仕事をすることも珍しくなく、手の空いた者が食事や飲み物を運ぶのもいつか日常的なことになっていた。

押し殺したルードの声と「やめろ!ルード!ダーク!」という社長の声が同時に聞こえて、ツォンは席を蹴ってルーファウスの私室へ向かった。
そこで見たのは、獣に押し倒されたルードの巨体であったが、なにより驚愕したのはその獣の大きさだ。
ルードにのしかかる獣は、彼とほぼ同じだけの大きさがあった。
昨日のあの小さな獣とは違う。
いったいこれはどこから―――!?
それでもツォンが銃を取り出さなかったのは、ルーファウスの制止がまずルードに向けられていたからだ。
「社長、これは」
「問題ない」
「しかし」
言い合う二人の前で、獣は舌を出してぺろりとルードの頭を舐めた。
「…」
ルードの声にならない声が響く。
「離れろ、ダーク」
笑いを含んだルーファウスの声が命じて、獣はルードの上から身軽に飛び降りてベッドの足元へ座る。
「いったい何が…」
再び問いかけるツォンに、
「さて? 今見たらこの大きさになっていた」
けろりとして答えるルーファウスはなんの疑問も抱いていないかのようだ。
思わぬ災難にあったルードはそそくさと部屋を出て行った。おそらく顔を拭きに行くのだろう。
「昨日のものと同一の個体ですか」
「そうだ。いきなりこの大きさになってルードに飛びついた」
飛びかかった、ではないんですか、と心の声が言う。
「以前のダークよりも一回り大きいな。成長したのか、それとも自由に大きさを変えられるのか…ダーク、小さくなれるのか?」
真顔でモンスターに話しかけるルーファウスに目眩を覚えそうになるが、それに応じてモンスターの形が揺らいで縮んだのには仰天した。
「なんて顔をしている。私の頭がイカレたとでも思ったか」
「い、いえ」
とっさに否定しても、それに近いことを考えていたのはバレバレだろう。
「これは犬ではないぞ。人並みにとはいかないが、かなりの言葉を解する能力がある。大きさを変える能力はダークにはなかったが、おそらくこれは後からも改造を加えられていたのだろう」
確かにモンスターには形状や大きさが変わるものもある。わかってはいても、目の前で見せつけられるまで気づかなかった。

「よかったな、ツォン」
「は?」
「護衛が増えれば、おまえたちも動きやすくなる」
「これ一匹に貴方を任せるわけには…」
「そうかな。護衛としてならイリーナよりはマシな気もするが」
そう言われると、返す言葉がない。イリーナは戦闘力こそかなりなものだが、判断力や事態への対処能力という点ではまだまだ半人前だった。そもそも警護にもっとも必要な警戒心というものがいささか欠如している。
おそらく人とは比べものにならない鋭い感覚を備えているであろう獣の方が、護衛としては間違いなく優秀だ。
「まあ、食事や飲み物は出せないだろうがな。その辺はレノといい勝負だ」
部下の能力をけだもの以下と言われてツォンはがっくりだ。反論できない辺りに、ますます気落ちする。
「小さくなれるというのも役に立つ。このサイズなら、連れ歩いても周囲に余計な警戒心を抱かせずにすむ」
「またお一人でふらふら出歩かれるおつもりですか」
「おまえたちの負担を軽減してやろうと言うんだ。何が不満だ」
「せめて人間の警護もお付けください」
「わかった。ジュノンから適当な者を見繕って出向させろ」
「了解いたしました」
双方の主張が、ようやく妥協点に落ちる。
それと同時にツォンは軽い驚きを感じていた。
ウェポンの本社ビル攻撃から今日に至るまで、ルーファウスは4人のタークス以外を頑としてそばに置こうとしなかった。
外部の者を信用しないとか、そういった理由ではなかったと思う。
軍の上層部は、ヒーリンなどさっさと引き払ってジュノン支社へ来るべきだと何度も言ってきた。不用心でもあるし、なにより兵たちは社長の傍近くで働くことを喜ぶだろうと。
それがわからないルーファウスではない。
ただ、エッジにほど近いこの場所は地理的には悪くなかった。
それを理由に彼はここにとどまり続けていたのだ。
だが、ツォンたち以外の者をそばに置かない理由ははっきりしなかった。
それを問うても『必要ない』と素っ気ない返事が返るばかりだ。
必然的にたった4人しかいないタークスの責任は重くなり、仕事は常に山積みだった。通信ですませられない協議や折衝にも出かけねばならず、生活能力は相変わらずゼロに等しいルーファウスの面倒も見なければならない。
いきおい、情報収集や裏工作といったタークス本来の任務はヴェルド率いる別働隊に任されることとなった。
ツォンたちは、神羅関係者から『社長のお使い』と思われている始末である。

「まだ何か不満か?」
考え込んでいると、声がかかった。
「いえ…」
「では、なぜ急に気が変わったのかと訊きたいのか?」
「…はい、そうですね。お教え願えるのなら」
「そんなにたいしたことではない。物事には潮時というものがあると私は思う。思念体事件からもだいぶ経った。そろそろおまえたちを本来の任務に戻してやらねばと考えていた所へ、ダークが現れた。巡り合わせとはそういうものなのだろう」
「そう…ですね」
「まだ納得できないか?」
「いえ…」
曖昧な返事になったが、真っ直ぐツォンを見つめていたルーファウスは視線を落として軽く息を吐いた。
「おまえは人の話は聞かないくせに、妙に聡いな」
褒められているのかけなされているのかわからない。
 
「これは、確信のあることではない。いや、根拠と言えるものすらないから、今の時点でおまえたちに言うつもりはなかった」
「どんなことでしょうか」
「なぜ今、ダークが現れたのか、私は考えていた」
そう。昨日の話では、どこかに保管されていたものが、いつかわからないが外に出て―――とルーファウスは言っていた。
「さっきまでは、これは本社の科学部門に保管されていたものだろうと思っていた。ここに辿り着くまでに時間がかかったのだと。けれど」
ルーファウスは足元にうずくまる小さな獣を見やり、顔を上げてツォンを見つめた。
「これの能力はどう考えても先代を上回っている。だとしたら、私を捜し出すのにそれほどの時間がかかったとは考えにくい」
「ではこれは本社ではなく別の所にいたと? そしてそこから出てきたのはつい最近のことだと?」
「おそらくそうだろう。それがどこか―――はわからん。ただ、今になって、というのが気になる」
「これの保管されていた場所に問題があるとお考えですか」
「そうだ。カンパニーは何事に関しても秘密主義だった。おやじは特に私を信用していなかったから、私に対して伏せられていたことは少なくない。私自身も、知る必要があると思ったことは追求したが、その他のことは放置していた」
それはしかたないだろう、とツォンは思う。
タークス本部に監禁されていた当時でさえ、ルーファウスには副社長としての通常業務が容赦なく課せられていた。その量は半端ではなく、秘書も直属の部下も持たない彼がどうやってそれをこなしているのか不思議に思ったくらいだ。
関心のない事項を調べて回るほど彼は暇ではなかったろう。
ただ、プレジデントがルーファウスを信用していなかったというのは少し違うように思う。
あの父親は、息子に見せたくないものは隠していた。理想の父親、理想の息子を思い描いて、彼の心の中でだけそれに近づこうとしていたのではないか。
実体はそんな理想とはほど遠いものであったのだが。
「実験体の保管庫の場所―――などですか」
「そうだ。私はソルジャーにもモンスターにもジェノバにも興味がなかった。そのことが最大の失敗だったと今では思っている」
ルーファウスの目が僅かに細められる。過去を追想するときの彼の癖だ。
 
「それはそれとして、だ」
瞬きをしてそれを振り切り、ルーファウスは目の前のツォンに視線を戻す。
「保管されていたものがこれ一匹だけというのは考えにくい。もし他にも何かがいたのなら、対処する必要があるだろう。そうでなくとも、その場所は調べておいた方がいいように思う」
「はい」
「ここまで話したならついでだ。ツォン、直ちにこれがいた場所を突き止めろ」
「了解しました」
ツォンは一礼し、部屋を出る。
ルーファウスはその後ろ姿を見送ったが、獣は興味なさげにうずくまる。
彼らに対して、久しぶりに任務らしい任務を与えたように思う。
どこをどう調べればいいのかもわからぬ任務だが、そういった調査こそがタークスの本領であり、彼らが十分に有能であることをルーファウスは知っている。
自分はただ、命じればいいのだ。
後は待っていれば、求める結果がもたらされるだろう。
それでも―――

「おまえが教えてくれたなら、簡単だったのだがな」
ルーファウスは足元の獣を見やって呟いた。

獣は主人を見上げ、首をかしげる。
獣にとって大事なのは、主人を護ることだ。それに必要なこと以外は、理解しない。
主人の声は心地よく、その足元で彼の体温を感じることは獣を満足させ、安心させた。
 
少しずつ、この手に戻ってくるものがある。
そう、ルーファウスは感じていた。
思念体事件はエッジに少なからぬ被害を生じたが、結果的には星痕症候群の治癒という成果をもたらした。
次は何が起き、どんな結末を招くのか。
この獣の訪れは、新しい事件の予兆のようにルーファウスには思えた。

4人のタークスだけをそばに置く生活は快適だった。
周囲の者たちは、なぜルーファウスがヒーリンに引きこもっているのかについて、いろいろと憶測を巡らせているようだったが、理由はさして複雑ではない。
始めて手に入れた、『気に入った者たちとだけ日常的に接して暮らす』快適さを手放す決心がつかなかっただけだ。
ツォンに関しては、危険な任務から遠ざけておきたいという心理も働いていた。
古代種の神殿での一件でツォンを失ったと思った時の痛手は、ルーファウスにとって忘れることの出来ないものだった。
カダージュに投げつけられた血まみれの社員証を見たときも、その傷みをリアルに思い返した。
彼らの有能さを疑いはしないが、それを過信していると手痛いしっぺ返しを喰らう。そう思い知らされたのだ。
常に自分のそばに置いておけば、危険は少なくなる。日常業務だけでも、捌ききれないほどあるのだから―――
だがいつまでもそうしているわけにはいかないだろう、とも考えていたのだ。
常に自己の満足よりも優先するものがある。自分の負った責任は、そういう類のものだ。
何かを手に入れたなら、きっと何かを手放す必要があるのだ。
「…ダーク、おまえはそのために来たのだろう?」
ルーファウスは獣に問いかけるでもなく呟く。
獣の背では、黒い小さな触手がさわさわと揺れていた。


主人の足元で、獣は丸くなって眠る。
ここが自分のいるべき場所だと、わかっている。
ずっと行かなければと思っていた。
主人を護っていた個体の情報が途絶えたときから、行かなければと思っていたのだ。
だが、誰も保管庫を開けに来なかった。
それからどれだけ経ったのか、時間の概念に乏しい獣にはわからない。
あるとき、誰かが扉を開いた。獣は一目散にそこを抜け出し、ひたすらに走った。
暗く狭い場所を駆け上がり、瓦礫の中を駆け抜けて、荒野に出た。
主人の気配を求めて走り回り、ここまで来た。
獣は満足していたが、それが保管されていた場所では不穏な事態が進展していた。

―――その場所は、『ディープグラウンド』と呼ばれていたのだが、当然獣は知るよしもない。

ディープグラウンドソルジャーによる襲撃が始まったのは、数日後のことである。

End