「は…?」
 その言葉がツォンの脳に達するまでに、果てし無い時間がかかった気がする。そして、達してからそれを理解するまでにも。いや、理解することはついに拒否した。





   BITTER

 
「いま、なんと…」おっしゃいましたか、と訊ねる声さえ掠れがちだ。
「だから」
 ベッドに半身を起こしたルーファウスは、こともなげにもう一度その言葉を口にした。
「抜いてやろうか、と言っている」
「ご冗談を…」
 笑って返す余裕もなく真剣に否定した形になってしまった。それは決してツォンの望むところではなかったのだが。
「私では嫌だと?」
 ソッコー、もっとも返答に困る言葉が返された。だから否定したくはなかったのに。笑って受け流せればすんだであろうに。
 いや―――
 この方がそんなことを言い出したら、ツォンがどう抵抗しようが穏便に収めることなど出来はしないと分かってはいるのだ。 
 それでも、無駄と知りつつ抵抗せずにはいられないツォンだ。
「そのような…そのようなことは言っておりません。けれど貴方にそんな言葉は似合いません」
「似合うとか似合わないとかいうことは訊いていない。して欲しくはないのか?」
「それは…」
 言葉につまるツォンを前に、ルーファウスは盛大にため息をついた。
「煮え切らない男だな。必要ないなら、それでもかまわん」
 きっぱり言い切った声には、不快がにじむ。それが何を意味しているか分からぬほどツォンは愚鈍な男ではない。
「社長」
 ベッドの横に跪き、ルーファウスの手を取る。
 ようやく腕の繃帯も取れ、わずかに引き攣れた痕を残して酷かった火傷の傷も消えかけている。
 ウェポンの攻撃による社長室被弾から半年。
 助かったのが奇跡だと言えるほどの重傷だった。半年を経てやっと、常時点滴を引き摺った状態を脱したばかりだ。まだ一人でベッドを出ることは出来ない。
 世界の状況も似たようなものだ。
 かつて網の目のように張り巡らされていた神羅の情報網は寸断され、通信もままならない。全ての中枢であったミッドガルと神羅本社を失い、復興作業は困難を極めていた。
 神羅の行っていた事業の全てを把握している者はルーファウス以外になく、指揮系統の崩壊した中でインフラを支えている各地区の元事業部を統轄できる者も、彼以外になかった。
 それ故病床のルーファウスにかかる負担は半端ではなく、それは連絡係として世界各地を飛び回るタークスも同じだった。
 だから、ツォンとルーファウスがこうして二人きりでいられることも、実はそう多くはなかったのだ。
 ルーファウスの容態が悪かった頃は、ツォンは彼の傍を離れようとしなかった。だがもちろんその頃はほとんど意識のない人の手を握り続けているだけだった。
 生きていてくれさえすれば―――
 とのツォンの祈りは確かに聞き届けられたのだろうが、意識の戻ったルーファウスが気にかけるのは相変わらず『世界』の事だけで、ツォンの心労が軽減されることはなかった。

 それでも。
 一進一退を続けつつもルーファウスは少しずつ健康を取り戻して来た。
 二人きりの時、軽くキスを交わすことくらいはしていた。
 だが、それ以上の触れ合いはこの半年無かったのだ。

 それにしてもいきなりなこの発言の真意はどこにあるのか。
 ツォンは頭痛ともめまいともつかないものに襲われながら考える。
「貴方がここにいて下さるだけで、私は充分です」
 両の手でルーファウスの手を包み、冷たい指に口付ける。
「それとこれとは話が別だろう」
 ルーファウスは包帯で覆われていない右目を眇め、ツォンを見下ろした。
 その表情も、以前と変わらない。
 その手にあった権力を失い傷ついてはいても、その美貌も気位も何も損われてはいない。
 ツォンの心を捉えて放さないこの存在―――
 彼に対して、愛しているとか敬服しているとか、そんな言葉では言い表しきれない複雑な思いを抱いている。

「ここにいる私はおまえにとって何者だ? カンパニーの社長か? それともいまだに幼少から面倒を見てきた御曹司なのか? 私とおまえの関係が単に上司と部下だというならそれでもいいだろうが、そうでないなら私の提案はごく自然なものだと思うが?」
 ツォンが異論を差し挟む間もなく、ルーファウスはまるで会議の場でのように蕩々と述べ立てた。
 それを前にして立ち向かえるほどツォンのスキルは高くない。いや、誰にも出来はしないだろう。かつてあのプレジデントでさえ、タークスを存続させよというルーファウスの意向に逆らえなかったのだから。
 だがこれはそんな風に討議されるべき内容なのか?
 ―――という一点において、納得できないツォンだ。
「おまえとて普通の男だろう。そして十分に健康体だ。まだ枯れるような年でもあるまい。だとしたら、どうやって処理している?」
「ルーファウスさま…!」
 いっそ悲鳴を上げたい気分だ。
 この上司と身体の関係があったことは事実だ。もちろん過去形にしてしまうつもりもない。
 いつだって、心も身体も触れ合っていたいと思う。
 だが、ツォンにとって一番の優先事項はルーファウスの健康だ。
 しかも自分の性生活についてあからさまに問いかけられるなど、きまり悪いを通り越している。
「おまえにどこかで愛人を持つほどの度胸があるとは思わんが、たとえひとときの相手だとしても見知らぬ女を抱くことを考えるのは不愉快だ。私はそれほど寛容な男ではない」
「ルーファウスさま! わたくしは」
 思わず声を荒げたツォンを、ルーファウスは笑って見上げる。

「だが、おまえの相手がその左手だけというのも気の毒だと思っている」

 いっそがっくりと床に伏したい。
 いったいどうやってこの方に対抗したらいいというのか。
 分かっている。
 そんなことはもとより不可能なのだ。

「ツォン」

 再度呼びかけられた声は艶を含んで甘く、差し伸べられる手が愛しげにツォンの頬を撫でた。
 その手に誘われるまま、唇を重ねる。
 触れ合うだけのキスではない。
 明らかに欲情を喚起する濃厚なキス。
 男同士とはいえあまりにもあからさまで情緒のかけらもない会話、と思っていたにもかかわらず、重ねて口にされた性的な単語は確かにツォンの肉欲を煽っていたらしい。
 絡められる舌と冷たい指の感触にツォンは存在を主張し始める『自身』を感じていた。
 くすり、とルーファウスが笑う気配。
 その手が思うより余程素早くツォンのベルトを緩め、下着の中にすべり込んでくる。
 すでに十分な熱と質量を持っていたそれは、ルーファウスの手の中でますます膨れあがる。
 その手の動きはぎこちなく、そういえば―――とツォンにわずかな回想をもたらす。
 この方がこんなことをなさった例しは、今まで一度もなかったと。
 ツォンの欲望に手を伸ばすことはあってもそれはたいてい自身の身体へと導くときで、ツォンに快楽をもたらせる目的ではなかった。
 だがそんなぎこちない動きも、ルーファウスの手によるものだと思えばどんなに巧妙な性技よりも刺激的だ。握り込まれ、擦り上げられる己が熱い。
 それをより深く味わうべくほとんど無意識に瞳を伏せたツォンは、次の瞬間焦りのあまり声を上げていた。
 生暖かく湿った感触がツォンを包み、ざらついた舌が先端を舐め上げたのだ。
「なっ…なにをなさいます…!」
 開いた目に映ったのは、己のものを半分ほど口に含んだルーファウスの姿だった。
 ぴちゃり、と濡れた音が響く。
 敏感な部分が舌で擦り上げられ、伏せられていたルーファウスの瞳がツォンを見上げた。
 深い蒼の瞳と、濡れた赤い唇。その瞳に射抜かれて、ツォンの身体が震える。

「う…っ」
「ん、ぅん」

 ツォンの押し殺した声とルーファウスの戸惑いを含んだ呻きがほとんど同時にあがった。
 快感の奔流が駆け抜けた後、ツォンは慌てて身体を退きルーファウスの肩を押さえた。
 抜け出すツォン自身によって強制的に開かれたことで、ルーファウスの口唇からは白い粘液が溢れ出してシーツに零れた。
「ばか、もの…っ」
 ルーファウスは咳き込み、口を袖で拭う。
「なんてことをなさるんですか。吐き出して下さい!」
 叫ぶツォンをじろりとねめつけ、ルーファウスは唇を舐めた。
「大きな声を出すな。ここは本社ビルと違って壁が薄い」
 当然の指摘に、ツォンは身を縮める。
「まったく不粋な男だ。これでは余韻も何もあったものではないだろうが」
「申し訳…ありません」
「分かったら二度とこんな乱暴はするなよ」
 はい、と素直に返事は出来ない。
 そもそも乱暴をしたつもりはない。ルーファウスの行為があまりにも予想外で、しかもツォンにとって咄嗟に受け入れがたいものだっただけだ。
「貴方も…このようなことはなさらないで下さい」
「何がだ。気持ちよくはなかったか? 私が下手だとでも言いたいか?」
 またしても返答に詰るような言葉が返ってきた。
 今し方天にも昇るような快楽を味わったばかりだというのに、それを与えてくれた愛しい人の言動はツォンを困惑させるばかりだ。
「そのようなことは言っておりません。ただ…貴方には似つかわしくないと」
「またそれか」
 うんざりした、という表情を作ってルーファウスは枕に沈む。そのまま横を向いてしまった恋人を見つめて、ツォンは途方に暮れた。

「おまえがどう思うかは問題じゃない。私は私のしたいようにするだけだ。分かるか? ツォン」
 永遠とも思える沈黙の後、ルーファウスは囁くように口を開いた。
「この部屋には窓もない。私には、外の世界を知るすべがおまえたち以外なにもない」
 ここはもともと研究施設として造られた場所だった。その地下深くの一室だ。この場所がルーファウスの病室として割り当てられたのは、一つには、表向き死んだことになっている神羅社長を人の目に触れさせぬため。もう一つは怪我の酷かったルーファウスを感染症から護るためだった。
 だが、閉ざされた部屋の中だけで過ごす日々がどんなものかまでは考えたことがなかった。
「あのタークス本部に監禁されていたときでさえ、端末から世界の情報にアクセスすることが出来た。だが今私の手にあるのは、ただおまえたちの報告とあの雑多な書類だけだ」
 それだけでも十分に過ぎるほどの負担を貴方に強いているではないか―――そんなツォンの思いは、ルーファウスとはすれ違っているのだろう。
「おまえが…外で何をしていようと、私には知るすべがないんだ」
「わたくしは」
「おまえの言葉は聞きたくない」
「そんな」
「誤解するな。おまえを信用しないと言っているのではない。おまえを監視していたいわけでもない。ただ…」
 ルーファウスは言い淀み、沈黙した。
「ルーファウスさま…」
 ツォンは今一度ルーファウスの手を取り、そっとその頬に口唇を寄せた。
「おまえたちがどう思っているかは知らんが、私にだって独占欲も嫉妬心もあるんだ」
「…はい」
 考えが至りませんで―――とツォンはルーファウスの耳元に囁く。
 ようやく振り向いてくれた瞳は淡い青だ。柔らかなその色が、ルーファウスの心情を何よりもはっきりと語っている。
 ツォンはそっと頬を撫で、口唇にキスを落とす。
 絡められたその舌には、まだ自分の放ったものの味が残っているのだろうか。それはよくわからなかった。
 首に廻された細い腕の頼りなさと、抱き寄せた背の薄さに胸が痛む。
 この方は不安なのだ―――とようやく気づいた己のふがいなさに、ただ腕に力を込めることしかできない。
「貴方のお身体が良くなったときは、存分にお返しして差し上げます」
 ようやく口唇に載せた軽口に、ルーファウスは今度こそ笑って応えた。

「楽しみにしている」
 


 end