TRY 雨である。 それも、かなりの豪雨だ。 ヒーリンの切り立った崖からは、まるで滝のように雨水が流れ落ちている。 遠くから聞こえる雷の音は、不穏な響きを持って轟いていた。 「…」 腕組みをしてじっと正面を睨みつけているルーファウスを横から伺って、レノは声を掛けたものかどうか迷っていた。 「社長…」 しびれを切らして呼びかけてみたものの、やっぱり『いくら睨んでいても食べられるようにはなりませんよ、と』とは続けることができなかった。 そう――― ロッジの狭いキッチンで、調理台の上に並んだ食材を前に二人は途方に暮れているのだった。 人里離れたヒーリンロッジに暮らしていても、ルーファウスの食事は以前と変わらず専任のコックが作っている。伝説の包丁を手に入れたと名高かった、前社長のコック長の一番弟子だ。副社長時代からずっと、一年365日、欠かさずルーファウスの食事を作ってきた。 神羅本社ビルの社長室で過ごしたわずかの期間を除いては、レトルトや冷凍に加工されてルーファウスのもとへ届けられてきたのだ。それは今もまた変わらない。 一時は死んだと伝えられた社長が存命で、再び食事をと要請されたとき、彼は涙を流して喜んだという。 ルーファウスの好みを熟知しているこのコックの作る食事は、今は毎日ロッジへ届けられていた。社長の安全のためにその所在は秘密にされており、運ばれる梱包は別の場所で受け取られてタークスによってここへ運ばれていた。 タークスたちの食事も、一緒に届けられる。 これは他のコックの手になるもので、内容もまったく違った。肉体労働が主であるタークスと、未だ体調も万全と言えない社長とでは、食事の内容が同じで良いはずもない。 ともあれ、そんな風に彼らの食事はいまだに毎食会社から支給されるものだったのだ。 ところが、この雨で昨日からヒーリン周辺の道路が不通になっている。 当然、食事の配達はされていない。 拙いことは重なるもので、ツォン、ルード、イリーナの3人は任務でロッジを離れていた。留守を任されたレノは、当然護衛としては十分な技量を持っていたが、タークスとしての訓練に『料理』という項目は入っていなかった。 食事が届かなくなって2日目。冷凍庫に残っていたものも食べ尽くし、さすがにまずいだろうと考えたレノは、近場へ食料の調達に出た。しかし、雨の中探し回ったにもかかわらず、手に入ったものは到底そのままでは口に入れられないであろう食材だけだったのだ。 エッジまで行けばもっとマシなものが手に入っただろうが、社長一人を残して遠出することは、もとより選択肢の中になかった。 そういうわけで、今二人の前にはタマネギ、ジャガイモ、何かの魚、何かの豆、よくわからない乾燥した黒いもの(昆布である)、これまた乾燥したキノコ、小麦粉(これは包装に表示があったので分かった)といった、二人の手には余る食材が並ぶこととなったのだ。 時刻は夕刻に近い。 朝から飲み物しか口にしていない二人はすでに空腹である。 レノでも飲み物くらいはなんとか淹れられた。パウダーのミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーにルーファウスは顔を顰めたが、とりあえず水分と糖分の補給にはなる。嫌な顔をしつつも、飲んでいた。 せめてここにいるのがレノでなく ツォンだったら―――と思わずにはいられない。ツォンに料理ができるかどうかは謎だが、少なくともあいつの淹れる紅茶は美味い。それは単にツォンが紅茶を好むからでしかなかったが、飲み物にバリエーションが付いたことだけは確かだ。 レノではなくイリーナだったら、まともな食事も作れたろう。学生の頃飲食店でバイトしていたというイリーナは、時折結構器用に軽食を作っていた。 あり得なかったもしもは、考えるだけ無駄である。 そう分かっていても、目前の食材を見るにつけ溜息を押し殺してしまうルーファウスだ。 食事に関して不平不満を言うことは上に立つ者として相応しくないと、幼少の頃から厳しく躾けられた。案外律儀な性格であるルーファウスは、ずっとその教えを守って暮らしてきた。そもそも食べることにあまり関心がなかったから、困った覚えもなかった。 しかし、このままでは次の食事がいつになるか分からない。栄養を摂取することは必要だ。仕事に没頭して食事を抜くことなど珍しくもなかったが、空腹も度を過ぎると頭が働かない。 食材の調理法についてネットで調べようとしたが、落雷のためか回線も繋がらない。電力は自家発電だったのがせめてもの救いだ。 「さて、と。どうしましょうかね」 レノの声も、途方に暮れた響きがある。わざわざルーファウス自身がキッチンへ出張ってきたのも、レノには調理ができないと分かっていたからだ。 しかし、できない者が二人寄った所でできるはずもないのが現実だ。 このロッジは、もともと神羅カンパニーの保養施設として建てられたものだ。コンドミニアム、という設えでキッチンには一通りの調理器具も備えられていた。ほとんど使ったことはなかったのだが。 「とりあえず…」 珍しく社長が口籠った、とレノは目を見開いた。どんな時でも淀みなく自信たっぷりな口調の人だ。嘘も真実も器用に織り上げて語る言葉は、常に説得力に満ちている。その社長をして口籠らせる事態なんてあったのか、と世にも珍しいものを見た気分である。 「煮れば食べられるだろう」 「これ、全部?」 おそるおそる訊ねると、ルーファウスは重々しく頷いた。 『ちょ、ちょっと待った、社長ーーーーーーーっっ!』 レノの心の声をよそに、ルーファウスは水を張った鍋にジャガイモを放り込んだ。 『それ、洗わなくていいのか? 皮とか剥いたりするんじゃないのか!?』 そして続けて、タマネギも放り込んだ。 『それも丸ごとかよ! 切るとか刻むとか、いや、そもそもそれも皮剥いてねえし!』 豆を全部投げ込むと、水が溢れそうになった。 「む…」 さすがにこれはまずいと気づいたらしく、しばし手が止まる。 『社長…男前すぎるぞ、と…』 その感想は心の中だけに留めて、レノは現実的な意見を述べる。 「み、水減らしましょうや、と、社長」 手を伸ばし、おそろしく重い鍋を持ち上げた。たぷたぷと水がそこらに零れたが、かまう余裕はない。流し台に運んでざあっと開けた。ジャガイモとタマネギと豆も流れ出す。 これ幸いと、申し訳程度にジャガイモの土を洗い落とし、社長に見とがめられる前に拾い集めて鍋へ戻した。 すると今度はその鍋へ、ルーファウスは思い切りよく魚を放り込んだ。昆布とキノコもそれに続く。 これを食うのかと思うと、レノは涙目になりそうだ。 おもむろに小麦粉の袋を取り上げたのを見て、さすがに声を上げる。 「しゃ、社長、それはやめときましょうよ、と。こ、小麦粉は水で溶いて焼くとお好み焼きとかできるんだぞ、と」 「そうなのか?」 「そ、そうだぞ、と…(たぶん)」 「ならばそうしよう、それはおまえが作れ」 「了解だぞっ…と」 自信はなかったが、このまま鍋に小麦粉をぶち込むよりはましだろうと、レノは自分を励ました。 「味付けは…塩はこれか?」 さすがに少しだけ舐めてみて確認すると、ルーファウスはその塩をスプーンに山盛りにした。 「ま、待った、社長! 味見しながら少しずつ入れた方がいいんだぞ、と」 「うるさいな、おまえは」 うるさいと言われてしまった。レノは目をしばたたき、肩を落とす。もし、尻尾と耳があったなら、思いきりしおたれていただろう。 それでもルーファウスは、レノの忠告を聞き入れて少しずつ塩を鍋に入れていった。 そうこうするうちに、鍋はぐつぐつと沸き立ち始めた。火力は最大になったままなので、盛大に湯が跳ねている。 「まあ、しばらくすれば煮えるだろう」 ルーファウスは軽く言い放つと、キッチンを出て行く。鍋を見守るつもりはないようだ。レノはため息をつき、手にしていた小麦粉の袋を見下ろした。 社長にああ言った手前、何か作らねばならない。 仕方なく、以前食べたお好み焼きを思い出しつつ小麦粉を水で溶いてみた。 レノがフライパンと格闘している間に、鍋の水気はすっかり無くなり、豆が溢れそうになった。昆布は巨大なものに変身して、くねくねと鍋を飛び出している。レノは慌てて鍋の火を止め、おそるおそるオフィスの社長に声を掛ける。 ルーファウスはキッチンの惨状をみて顔を顰める。 鍋からは豆と汁が溢れて焦げ付き、レノの作っていたらしい小麦粉の溶いたものがそこら中にまき散らされている。皿の上にはなにか、ねとねとしたものが載っている。 それでもこの惨状の半分は自分に責任があることは否定できない。なのでルーファウスはそれについてはなにも咎めず、ただ 「テーブルに運べ」 とだけ言った。 さて、テーブルに運んだ大鍋と、大皿に盛った具無しのお好み焼きを前に、二人は無言でにらみ合っていた。 大鍋の中味は溢れんばかりの豆の中に、煮え切って崩れた魚の残骸が覗き、皮のまま丸ごとのタマネギが見え隠れするというどうにも凄まじいものだ。 皿に載っているものは、食べ物と言うより糊と言った方が適確に見える。あちこちにある焦げ跡を除けばだが。 「とりわけてくれ、レノ」 意を決したようにルーファウスが命じた。 結論から言うと、豆は生煮えだった。魚は生臭く、ジャガイモはとろけて鍋の底に焦げ付いていた。皮付きタマネギは、皮を剥けばなんとか食べられた。 糊は口の中でねちゃねちゃした。 それでもルーファウスは文句も言わず黙々とそれを口に運んだ。 レノは一口食べて吐き出したくなったが、社長の手前そうもいかず皿を突き廻して時間を稼いだ。 「なんなんですかーーーっ、これっっ!?」 悲鳴のようなイリーナの声がロッジに響き渡る。 ようやく回復した天候に、真っ先にロッジへ戻ってきたのはエッジに出向いていたイリーナだった。 そのイリーナを待っていたのは、まるで押し込み強盗にでも遭ったようなキッチンの惨状だった。キッチンが強盗に遭うというのはあきらかに変な言い回しだったが、他に考えつかない。 「まあまあまあ」 レノが顔を出してひらひらと手を振った。 「センパイッ!!」 「しっ」 レノは素早くイリーナの傍によると、耳に口を寄せて囁いた。 「これを散らかしたのは、社長なんだぞっと。だからあんまり騒がない方がいいんだぞっと」 半分は自分のせいだったが、それについては口を噤む。 「社長が…」 イリーナは絶句し、途方に暮れたように辺りを見回した。 「イリーナ、レノ」 後方からかかった声に、レノはびくりと身体を竦ませ、イリーナは慌てて姿勢を正した。 「道路が通じたなら、食事に出よう。レノ、車を出せ」 珍しい命令にレノは一瞬目をぱちくりしたが、 「はいはいっと」 すぐに二つ返事でキッチンを飛び出していった。 「社長…ここは片付けなくていいんですか」 「ハウスクリーニングに任せればいい」 おそるおそる聞いたイリーナに、ルーファウスは即答した。 「いや…」 だが、ふと調理台の上の鍋に目を止めると、おもむろに 「その鍋の中味だけは、きっちりゴミに出して置くように」 と言いおいて、踵を返したのだった。 恐るべし、社長の手料理(笑) |