―――恋は眠る気持ち起こして 思いがけない見知らぬ顔時折垣間見せる 意図的に避けられているのではないかと、ようやく気づいた。 以前はツォンに割り振られたような副社長への報告や外出時の随行が、あれ以降全くない。それも、あの告白の直後からというなら納得もできたが、襲撃の後からというのが疑問だった。 ルーファウスはツォンが彼の好意に対して冷淡な態度をとった(結果的にそういうことになってしまった)時にもなんら変化はなかった。仕事に私情を挟むことなど決してしない。そんなところも、彼が『生意気なくそガキ』ではないことの証拠だった。 なのに、ここへ来ての忌避である。 ツォンにはあの告白以外に思い当たる原因がない。 自爆テロ事件の後始末も終わって通常業務だけに戻ると、その疑問が重くのしかかってきた。 実のところ副社長は怪我の状態が思わしくないという話で、出社しない日も多いらしい。だから社内で出会わないのも不思議はない―――といえなくもなかったのだが、それはそれで心配の種だった。 当初は タークスは事実上社長直属の機関だ。ならばもっとも社長に近しいわけで、当然社長子息である副社長にも近しい。そのタークスに対して情報が伏せられているということは、社長、もしくは副社長本人の指示であるということだ。おそらくはその両方だろうと、ツォンは当たりをつける。 そして自分は故意に副社長に避けられている。 その原因が例の『告白』にあるならば、ある意味避けられて当然。不公平を訴える権利も不満を抱く理由もないのは明白だ。 八方塞がりとは、まさにこのことだった。 難しい顔をしてモニタを睨みつけるツォンの意識は、だが画面のレポートにはない。放たれるぴりぴりした剣呑な気配に部下たちは首をかしげつつも緊張していたが、もちろん例外なのがこの男である。 「なあなあ、ツォンさん」 またしてもだらしなくツォンのデスクに尻を載せて、レノはモニタをのぞき込んだ。そこに映し出されているのが自分の 「副社長、怪我した目の具合が良くないらしいって知ってたか、と」 ぴくり、とツォンの肩が動いたのは見逃さない。 それでも相変わらず無言のツォンにたたみかける。 「ここんとこ休みが多いじゃん。仕事中毒みたいな人だったのによ、と」 「明日のレセプションには参加される。さほど悪いわけではないのだろう」 「ふーーん、そう、心配じゃないわけ?」 「我々が心配しても始まらん」 「我々ですか、冷たいねえ、と。さてそれじゃ俺はその『明日のレセプション』の打ち合わせに行ってきますよ、と」 のんびりした動作で腰を上げ、レノはぷらぷらとドアへ向かう。 その後ろで、ツォンの眉間のしわがますます深くなったのは、もちろん承知の上である。 『あーあ、なんとかなんねぇのかよ、これ』 心で愚痴を呟いて襟元を緩めようとした手をびしっとはたかれた。レノの方を見向きもしないまま手をはたいたのは、いつの間にか横に立っていたタークス主任のヴェルドである。 華やかなレセプションの会場だ。 北方の小国ニダリールの王族を招いて開かれている。 主催はミッドガル市長であったが、実質仕切っているのは神羅カンパニー。当然社長副社長共に出席しており、タークスからも数人が警備にかり出されていた。 神羅カンパニーは急成長したために新興の成り上がりと思われているきらいもあるが、もともと神羅家はミッドガルの旧家である。各地の王族や名家とも親交が深い。 格式張ったディナーではなく、立食形式の軽いレセプションだ。だがそれ故に、警備はより厳重だった。そんなわけでレノはしなれないタイをきっちりと結び、シャツの裾はしまって上衣のファスナーも上まで留めて―――と、すでにこれはレノじゃないわねとシスネに鼻で笑われた格好で壁際に突っ立っているのだった。 ヴェルドはさりげなく社長の後ろに控えている。が、レノは動き回ることを許されていない。会場の様子に気を配り、副社長を目で追う。白いスーツはどこにいても目立った。 綺麗な顔に、張り付いたような愛想笑い。驚くべきは愛想笑いとわかっていても思わず見とれてしまうことだ。 男にしておくには惜しいくらいの美人だよなあ、と心の中で独りごちる。まああれで女だったら、いろんな意味で怖すぎる。 こんな小規模なレセプションにタークスまで動員されたのは、まだ皆先日の自爆テロを忘れていないからだ。 たった二月前――――その怪我が治りきらないと言われている副社長だが、見る限りそんな様子はない。歩き回り、ワイングラス片手ににこやかに歓談する優雅な仕草は健在だ。 ツォンの言ったようにさほど悪いわけじゃないのか―――と安心しかけたレノだが、ふと気づく。 副社長は時折眩しいものでも見るように目をしばたたく。ほんの一瞬だが、繰り返されるその表情は明らかに異常だった。そう気づいてからは、副社長の顔から目が離せない。微かに寄せられる眉、指先で額を押さえる仕草、次第に悪くなる顔色。はらはらする。 もう我慢できない、副社長を拉致って休ませよう、とレノが心を固めた頃、ようやくパーティはお開きになった。 がやがやと客が帰り初め、社長と市長は出口でそれを見送っている。だがそこに副社長の姿はない。 閉会の挨拶に人々が気をとられた隙に、レノとヴェルドで抱えるようにして控え室へ連れ出したのだ。人払いをし、 控え室には医師がいて、ぐったりとソファに横たわった副社長を診察した。 「ちょっと疲れただけだ、鬱陶しい」 ルーファウスは手を振ってそれを拒絶する。 「眩しい…明かりを落とせ」 手のひらで目を覆う。さして強い明かりではないのだ。目に異常があるのは間違いなかった。 「もう一度精密検査をいたしましょう、副社長」 医師が遠慮がちに問いかける。 「もうたくさんだ、どうせ何も出ない」 苛々した物言いは、これが何度も繰り返された問答であることを思わせた。 「ではせめてカウンセリングを」 「ルーファウス!」 乱暴にドアが開かれて、プレジデントの大声が響いた。 「勝手に退出するとは、どういう了見だ!」 「プレジデント、副社長はお加減が」「うるさい!おまえに訊いているんだ、ルーファウス!」 医師は首をすくめレノは心の中で舌打ちしたが、肝心の副社長はソファから身を起こす気配もない。 「些細な怪我をいいわけにいつまで甘ったれているつもりだ。いい加減にしろ!」 そりゃねえだろ、と言いたいがさすがに口を挟めない。 それでも何も言わない息子に業を煮やしたのか、プレジデントはつかつかとソファに歩み寄るとルーファウスの襟元を掴み上げた。 「返答しろ!」 ルーファウスはようやく瞳を開く。間近にある父親の顔を見るでもなく、平坦な声で「気に入らないなら、解雇すればいい、社長」と呟いた。 「なんだと!」 父親の額に青筋が浮く。 「このっ」 そのまま怒りにまかせて息子の頬を打った。 「馬鹿者が! ワシに恥をかかせる気かっ!」 続けて、二度三度と殴りつける。 避けるつもりもないのか、黙って殴られているルーファウスの唇が切れて血が飛んだ。 「社長」 穏やかな声でヴェルドが割ってはいる。 「もうそのくらいに」 押さえてはいても決然としたその声の響きに、さすがに少しは頭が冷えたのかプレジデントはルーファウスをソファに投げ出し、そのまま控え室を出て行った。ヴェルドが後を追う。 残されたレノは、しばし呆然としていた。 スラムのぼろ家で酔いどれおやじが子供を殴っている姿そのものだった。 ある意味見慣れた光景は、この世界で一番裕福な親子によってミッドガル一高級なホテルの控え室で繰り広げられたが故に、不思議なインパクトがあった。 「大丈夫ですか、と。副社長?」 ぼっそりと声をかける。 その場にいた医師が唇の傷を手当てしている。レノが手を出す必要はなかったので、声をかけるしかやることがなかった。 「問題ない」 どこがだよ、とは心の声だ。 打たれた頬は腫れてきているし、唇の傷からはまだ血がにじんでいる。いや、それよりも問題は目の方じゃないのか。 「副社長、お送りしますよ、と」 「おまえが?」 副社長の目がレノを見て細められた。珍しくもきっちり着込んだ制服姿が興を誘ったのか、「いいだろう」と一言。 タークスの専用車は社用車に比べて乗り心地はいいとはいえないが、頑丈さでは一番。外見はありふれたSUVである。単方向透過性防弾ガラスの暗い窓と細工されたナンバープレートはちょっと見ゾク車のようでもある。神羅カンパニーの社用車だと思う者はまずいないだろうが、特殊IDのおかげで検問に引っかかることはない。 その後部座席に副社長を乗せて、レノはホテルの駐車場を出た。 「まっすぐおうちに帰るのかな?と」 「ふっ」 後ろで副社長が笑う気配。 「本社へ戻る。仕事がたまっている」 「アンタ解雇されたんじゃないのかよ、と」 「ばかばかしい…ただの親子喧嘩だ。どこにでもある話だろう」 「そりゃそうですけどね、と」 はあ、と息を吐いてルーファウスは頭を座席にもたれかける。疲れているのか、具合が悪いのか判然としない。 これから仕事というのは感心しないと思ったが、屋敷に戻ればまた父親と顔を合わせることになるかもしれない。それならいっそ会社の方がましか…。そう判断してレノは黙ったままハンドルを本社に向けて切った。 副社長は部屋にたどり着くとデスクには向かわずまっすぐソファに倒れ込んだ。 やっぱりな。仕事は口実で、父親と顔を合わせたくないのが本音だったんだろう。 「水を持ってこい」 「へいへーい」 副社長室に併設された給湯室の冷蔵庫から取り出したボトルの水を渡そうとすると、嫌な顔をされた。 「グラスについでこい」 レノにとっては目が点とはまさにこのことだったが、言われるままにグラスを用意した。水を注いで渡してみれば、それを優雅に口に運ぶ姿は鑑賞に値する、なんて思ったりするのだった。確かにこの人にはボトルから水をラッパ飲みする姿は似合わない。 と、副社長は内ポケットから錠剤のシートを取り出した。無造作に5、6錠を口に放り込む。 おいおいおい、それって多すぎないか!? 「ただの痛み止めだ、問題ない」 先手をとって口を封じられた。 「けど、飲み過ぎだろっと」 「気にするな」 「そうはいかないんだぞ、と。どっか痛むのか? 目の具合が悪いって、ほんとみたいだな」 「ふ…、タークスが診察か?」 「そうじゃないぞっと。けどあの医者がカウンセリングって言ってたんだぞ、と」 ルーファウスの顔がわずかに歪む。 「何か問題があるなら、俺が聞くんだぞっと。もちろん秘密厳守だぞ、おやじさんにも言わないぞ、と」 「なるほどな…。さすがタークス、と言うところなのか…」 ルーファウスの声から少しだけ力が抜けた。 「呆れたろう。あの父親にしてこの子あり…だな」 「ま、ちょっくらびっくりしたけどな」 「半分は本気だったんだ」 「は?」 「辞めてもいいと思っている」 「会社をか?」 「ああ…。こんな状態では、どのみちどうにもならなくなる」 「ちゃんと治るまで休むとか…できないのかな、と」 「いつ治るかもわからないのに? 神羅カンパニーはそれほど寛大な会社ではない」 「いつ治るかわからないって、そんなに悪いのか?」 「悪い…のかどうかもわからん。言葉にできる症状は、眩しさと頭痛くらいだな」 「仕事にならないくらいひどい、と」 「時によるが…モニタの文字も読めなくなる」 「で、原因不明、と」 「そうだな。医者は精神的なものじゃないかという」 「で、おやじさんはお怒りってわけか、と」 「そのようだ。たるんでるからそんなことになるんだと、ずっと言われている」 「で」 と三度重ねて、レノはしばし言葉を切った。 「副社長には心当たりがあるのかな、と」 ルーファウスは目を閉じてゆっくり息を吐いた。 「無い、と言えば嘘になる…のか」 「爆破事件の時…」 一言ずつ訥々とルーファウスは話し出した。強い光を宿す瞳は閉じられたまま、声には力が無く普段の彼とは別人のようだ。レノはソファの端に軽く腰を下ろして聞いていた。 「私はランタル社の一行を迎えるため来客用フロアにいた。一緒にいたのは、資材部の部長と古参の専務一人、その部下が数名だった。そうしたら タークスからの情報は、インカムを通じて 「ジムが…ジムは私がまだ副社長就任する以前から あの時ルーファウスを護って死んだ 「そのジムが、私を抱き込むようにしてフロアから連れ出そうとした。そのとき、いきなり電源が落ちた」 ツォンの指示でシスネが全館の電源を落としたときだ。そのおかげで自爆テロ犯を乗せたカゴは停止し、来客用フロアの被害はあの程度に抑えられた。 「その後のことは…混乱している。爆発の―――たぶんその記憶なのだと思うが、光と衝撃があって、気づいたら床に倒れていた」 ルーファウスをかばった 「ジムの身体が私の上に覆い被さっていて…声をかけようとしたが血が…」 荒っぽい仕事が身上のタークスでも、返り血を浴びるのは楽しいことじゃない。仲間の血ならもっとだ。ましてまだ子供の副社長なら、ショックを受けても当然だ。 「血が顔に降りかかって、それからスプリンクラーの水も降ってきて、声を出すどころではなかった。それに、ジムには首がなかった。血はそこから吹き出していたんだ。少しして、周りじゅうから悲鳴やうめきが聞こえてきた」 あの状況で全部認識してたのか、とレノはむしろルーファウスの冷静さに舌を巻く。少しして悲鳴が、というところに妙な説得力がある。爆音で少しの間耳が聞こえにくくなったのだ。 「ジムの身体の下から出るべきかどうか、私は迷っていた。そうしたら―――」 ルーファウスは言い淀む。 そこは躊躇うとこなのか?と疑問に思うのはレノだ。ここまでの話だと、比較的単純なPTSDのようだった。だがルーファウスが問題にしているのは、そのことではないのだろうか。 「そうしたらツォンが来た」 坦々と話していた声が揺れる。 ツォン―――さんがキーか。レノの中で、いつぞやの難しい顔をしたツォンの姿がよみがえり、散らばっていたパーツが一つにまとまり始める。 「私を抱え上げて…名を呼んだ」 閉ざされたままのルーファウスの左目から、つうっと涙が頬を滑り落ちた。レノは目を見張る。天地がひっくり返っても、副社長の涙なんか見ることはないと思ってた。 そのときルーファウスが突然瞳を開いた。呆けた顔をじっと見つめられ、レノは思わず横を向いた。 「勘違いするな、これも『問題の後遺症』だ」 左目を軽く押さえ、ルーファウスは頬をぬぐった。 「勝手に涙が出る…左目だけな」 そうなのか、とレノは副社長に視線を戻す。確かに、今し方ぬぐわれたにもかかわらず頬にはまた新しい涙の筋がある。左側にだけ。見ているうちにも、盛り上がりあふれてくる涙―――生理現象だと言われても、どぎまぎする。 「で、ツォンさんが来て、それから?」 少しばかり横にそれてしまったルーファウスの告白を無理矢理元に戻す。 「ツォンを見て…私は…、私は、死んだのがツォンでなくて良かったと、そう思ったのだ」 ルーファウスは一気にはき出すように言った。 『?』 レノの頭に浮かんだのは、『当然じゃん』という言葉だった。だから、続けて疑問符が浮かんだ。いったい何が問題なのか? だがルーファウスはそれきり口を噤んでしまった。解説してくれる気はなさそうだ。もう一度、頭の中で構図を組み立て直す。 自分が『死んだのがツォンでなくて良かったのは当然だ』と考えたのは、ツォンがレノにとって仲間であり、親しい存在だからだ。 だが副社長から見れば、タークスの命など兵士のそれと変わらない。タークスは選び抜かれた特殊工作員であるが故に、一般の兵に比べれば質的損失は大きいといえる。だが、実際に生死に関わる場面でそんな経済的得失など計算するとは、さすがに考えにくい。 そして、近しさというなら先ほど副社長が言ったとおり、 とすると副社長の言葉にはどんな意味がある? 副社長室から出てきたツォンの、難しい顔を思い出す。 「あー、副社長、と」 間延びした声でレノは問いかける。 「アンタ、ツォンさんのことが好きなのか?」 はっとしたようにルーファウスの瞳が見開かれ、レノを見つめた。 「ビンゴ、かな、と」 「いや」 再び目を閉じて、ルーファウスは呟くように言った。 レノは首をかしげる。絶対当たりだと確信があったのに、なんでノーなんだ? 「ツォンには一度、伝えたんだ。だが、その場で拒否された」 えーーーーーーっ!!! もったいねえ! 心の中で叫ぶ。 俺だったら即オッケーそのまま押し倒しちゃうぞっと! いやいやいやいや、落ち着け俺。 場違いにいきなりMAX盛り上がったすけべ心を無理矢理鎮めて副社長の様子を観察する。 「だから、もうそういう感情は持つだけ無駄と言うことだ」 はあ? 無駄? 無駄とおっしゃいましたか、副社長。 取引じゃないんだから無駄とかそういう問題じゃ―――いや、そうか。確かにレンアイは駆け引きだよなあ。 告白即撃沈じゃあ、ヘコむのも無理はないしこれ以上は無駄とか副社長が思っちまうのも仕方ない気がする。 なにしろまだ15なんだし、今までほとんど屋敷から出たこともなかったってぇ筋金入りの箱入り息子だ。どう見たってレンアイ経験豊富なわけがない。ひょっとしたらこれがハツコイってこともありうるかも… 「なあ…」おそるおそる問いかけてみる。「ツォンさん、なんで断ったんだぞ、と?」 「私が神羅だからだな。いろいろと言を左右していたが、詰まるところそういうことだ」 そりゃあいかにもツォンさんらしい―――が レノはルーファウスの認識の正確さに感心するよりむしろ呆れた。とても15の子供とは思えない。 カンパニーの副社長職が務まるというのはこういうことかと、改めて思う。そして、ルーファウスが『無駄』と言った意味も今度こそ了解した。 男であるとか子供であるとか、おそらくツォンも言い訳に使ったであろうそんな要素は、言ってしまえば些末なものだ。自分の美貌と知性と、さらには地位と権力と金―――に絶対の自信があるからこそ、ルーファウスはツォンにそんな告白をしたのだ。 ツォンさんがもう少し計算高いかもう少し融通の利く男だったら断るなんて考えなかったろう。神羅カンパニーの副社長と懇意になれるチャンスを棒に振るなんて、普通あり得ないし。 いやもう、俺だったら『美貌』だけで120%オッケーだけどな。 惚れた相手が悪かったなァ、副社長―――って、それで済む話じゃないわな、こうなると。 「えーーと、それで、副社長はツォンさんのこと思い切れないのが原因と」「そんなわけなかろう、馬鹿者」 馬鹿者って言われちゃったよ。 「それが仕方ないことだというくらい、いくら私が子供でもわかる。そんな話はどこにだって転がっているし、誰にだってあり得る。私だって、そこまで柔な男ではない」 ま、そう言われちゃうとそうかもしんないけど――― 「でも、事件の時ツォンさんが来て嬉しかったんだろ」 「……」 ルーファウスは間を置いてゆっくり口を開いた。 「嬉しかった…。そうだな。ツォンが私の名を呼んで、必死に抱きかかえてくれた。仕事だとわかっていても、嬉しかった」 いじらしいじゃんよ。ツォンさんに聞かせてやりてぇ。あの唐変木にはもったいない相手だぞ。 「それはまあいい。けれど、死んだのがツォンでなくて良かった、などと考えるのはまずい」 どこがどう違うんだ? 「ツォンと私の間にプライベートな関係があったのなら、それでもいいだろう。けれどそこに何もない以上、一社員に対して特別な感情を抱くのは不公平になる」 や、そんなに簡単に割り切れないだろ―――とは思うけど、副社長にとっては大問題なんだな。 「レノ、世の中の半分は金で動いているが、後の半分は好きだの嫌いだのという感情で動いているんだ。それは無視できない重要な要素だ。もちろんビジネスの上でもな。だが仕事に関係ない感情を副社長である私が率先して社内に持ち込むわけにはいかない。その波及する範囲が大きすぎる」 ややこしいぞ、と。 「わからないか? 私をよく思わない者―――たしか先日の自爆テロの内部犯もそうだったはずだが―――にとっても、私に取り入ろうと考える者にとっても、付け入る大きな隙ができると言っているんだ」 「それで、会社辞めてもいいって?」 「違う。辞める辞めないは純粋に体調の問題だ」 それはそれ、これはこれ。 そうそう上手くはいかないだろう―――と、わかった上で言ってるわけだよな。全く小賢しいことで。 「原因がわからない以上、治療の方法もない…心理的なものだというなら、今言ったことくらいしか思い当たる節はない」 「うーーーん…」 レノは首をかしげる。 副社長の話は、理屈は通っているがいまいち説得力に欠ける。それはたぶん本人もそう思っているからだろう。 「長話ししすぎたようだ。そろそろ切り上げて仕事に取りかからねばな。おまえはどうする。帰宅するか?」 「や、アンタ一人置いて帰るわけにはいかないぞ、と」 「おまえが帰るなら 「責任もって朝の引き継ぎまで見届けますよ、と。ここで帰ったりしたら、ヴェルド主任にぶっ飛ばされるし。あの人そういうとこは厳しいんだぞ、と」 「そうか」 ルーファウスは初めて小さく笑い、レノに腕を伸ばした。 「手を貸せ」 かわいいじゃん、かわいいじゃん。なんでこんな可愛い子の誘いをはねつけるかなあ、ツォンさん! 羨ましすぎるんだぞ、と小さな手を握る。 ほとんど力を入れる必要もないくらい、引き上げた身体は軽かった。 ルーファウスは立ち上がり、デスクに向けて2、3歩歩いた。そして、かくんと糸の切れた操り人形のように床にくずおれた。 「副社長!?」 次 |