Lock on you



 がたん、と響いた音の大きさに、その場にいた全員がいっせいに窓際のデスクを見た。
 丁度4人のタークスが揃っていたのは、稀な偶然だった。
 このところとみにタークスに与えられる任務は緊密さを増し、このロッジにその姿が揃うことは激減していたのだ。
 それが単に情勢の変化の問題ではなかったことを彼等が認識したのは、皮肉にもこの出来事によってであった。
 その彼等の目に飛び込んできたのは、胸を押さえてかがみ込んだ上司の姿だった。
 息を継ぐ間もなく、駆け寄ったツォンがその身体を支える。
 いつどうやってデスクの側まで移動したのか、レノにさえわからないほどの素早さだった。
 タークス一のスピードを誇る男、と自認するレノは遅れを取ったことに舌打ちしたが、それ以上に主任がどれだけ社長の体調に気を配っているのか、改めて気づかされたことに敗北感を覚えた。

 抱き留められて床に倒れることは免れたが、ルーファウスはツォンの腕から逃れようとするかのごとく身を捩った。
「社長、落ち着いて」
 悲痛なツォンの声もその耳には届いていないのか、痙攣するように震える身体を折って咳き込む。
 
 点々と床に散る黒を認めて、レノは愕然とする。
 それはどう見ても彼の手から散ったものではない。
 包帯で覆われていない右手に現れた星痕はまださほど大きなものではなく、これほどの量の膿が出るとは考えにくい。
 とするならば。
 俯いたルーファウスの顔を覗き込み、その唇から零れる黒い粘液を見たとき、同時に背後で悲鳴が上がった。
 それは悲鳴と言うには小さすぎる声であり、実際には擦れた息でしかなかった。
けれどそこに込められたイリーナの驚愕と絶望をレノの耳は確かに聞き取ったのだ。
 それはほんの一瞬の出来事で。
「レノ!薬を。赤いラベルの注射器だ!」
 ツォンの命令が飛ぶ。
 レノは一足で部屋を横切り、薬箱の置かれたルーファウスの私室に飛び込んだ。

「社長、腕を出して。力を抜いてくださいよ、と」
 無理とわかっていて、懇願する。
 ツォンは、痛みに引き攣るルーファウスの身体を抱きしめてその背をさすっている。
 とても手を離せる状態ではない。
 常ならばこの役はツォンが行っていたのだろう。
 レノは実際、注射器を手にすることも初めてだった。
 注射器の中味は、痛み止めと発作を抑える効果があると考えられる薬品を調合した薬液だ。薬の強さによってレベルが分かれており、ラベルの色で区別されている。それは教えられていたが、実際に手にするのは初めてだった。
 ルーファウスは顔をツォンの胸に埋め、喘ぐように息を継ぎながら痛みに耐えている。額には脂汗が滲み、口から溢れた粘液が白い服を汚している。
 こんな姿を見たことがない。
 それほどにこの発作がひどく、余裕がないということなのだろう。
 そしてそんな姿を見せることを忌避して、彼がことさらに自分たちをこのロッジから遠ざけていたのだということだ。 
「社長…!」
 声をかけながら、注射器を持つ自分の手が震えていることに、レノは気づいた。
 これしきのことで。
 どんな危険な任務に臨んだときだって、手が震えたことなど無かったのに。
 これでもタークスか。
 
「社長、失礼しますよっ、と!」
 わざと大声で言い、力任せに細い腕を引き延ばして袖をまくり上げ、薄青く浮かぶ静脈に針を刺した。
 なんとか上手くいったのは、生来の器用さのおかげだったと思う。
 レノが針を抜くと同時にルーファウスの身体から力が抜け、ツォンの腕の中で白い顔ががっくりと仰のいた。
 
 ツォンは抱えた身体をベッドに下ろすと、手際よく衣服を脱がせる。
 沁み出た膿はシャツまでも薄黒く染めていて、その量の多さにレノは瞠目した。
 膿――と言ってしまえばただの汚物のようだが、もとはといえば患者の体液だ。
 このところルーファウスがあまり食事を摂れなくなっていることは、レノも知っていた。
 発作の回数が増えていること。
 その程度が、酷くなってきていること。
 これだけの体液を失うことがその身体にとってどれほどのダメージか。
 考えると背筋が寒くなる。
 繃帯を外されてむき出しにされた肌を蝕むその痣に、目を覆いたくなる。
 外された繃帯には、滴るほどの膿が浸みている。
 濡らした脱脂綿でまだ沁み出てくる膿を拭き取りながら、ツォンはぴくりとも動かないルーファウスの身体を横に向けた。
 僅かに開いた唇から、また黒い液体が流れ出す。
 凄惨――と言っていいその光景に、息苦しくなる。
 
 黒い死――
 それに蝕まれるのがこれほどに無惨なことだとは、実際目にするまでわからない。
 星痕で死んだ者を見たことなら何度もある。
 エッジの路地裏で死んでいた子供。
 ミッドガルの廃墟に放置された死者。
 弔う者もなくうち捨てられたその死者達の墓を作る余裕すら、この街にはまだ無い。
 
 そしていつか――彼もその列に加わるのか。

 血の気のない唇。
 閉ざされた瞳を縁取る睫毛の影。
 汗に濡れて額に張り付いた金の髪。
 おぞましい黒い痣に冒されていてさえ、彼はまだ充分に美しい。
 まだ――そう、彼はまだ23になったばかりだ。
 子供と老人に罹患するものが多いというのは、周知の事実だ。だが、彼はそれには当てはまらない。
 もしかしたら、2年前に負った怪我のせいなのだろうか。だとすればあまりに遣り切れない。その怪我を、彼がどれだけ忍耐強く克服してきたのか、自分たちが誰よりもよく知っている。
 彼は一度として苦痛を訴えることも弱音を吐くこともなかったが、1年半を過ぎてようやく立ち歩けるようになったばかりだったのだ。
 そんな状態でさえ、少しも自分の身体を労ろうとしない彼に、どれだけ振り回されてきたか。
 一人でベッドから出ることも出来ない人間が過労で倒れるなど、誰が想像しようか。
 メテオ災害の後、神羅カンパニーは破綻し、世界は恐慌の縁に立たされていた。
 それをくい止めるために、彼でなくては出来ない仕事が多すぎた。それほどに人々の生活はカンパニーに依存しており、たった2ヶ月ばかりといえどカンパニーのトップであった彼以外に、その巨大企業の全貌を把握している者はいなかったのだ。
 だから彼の健康状態は常に『芳しくない』と『最悪』の間を行き来しており、それを端で見守る者たち――特にツォン――の心労が軽減されることはついぞなかった。
 だが、星痕症候群の発症はそんな不安を絶望へのカウントダウンに変えた。
 ルーファウスは限られた時間を如何に有効に使うかしか念頭になかったので、それまでにも増して自己の体調に無頓着になった彼を気遣うことはタークスに任された最大の任務の一つとなっていた。
 だが、実際はほとんどツォンが一人で抱え込んでおり、レノ達は外回りに出されることが多くなっていたのだ。
 それをいいことに見ない振りをしていなかったかと言われれば否定できない。
 彼の苦痛を目の当たりにするのは酷く辛かった。
 
 ようやく膿を拭き終えると、ツォンは慣れた手つきで新しい繃帯を巻き始めた。
 ぐったりと意識のない身体を器用に抱え上げて巻き付ける。
 もともと華奢だった身体はなお軽くなっているのか、ツォンの腕の中ではまるで重さがないかのようだった。
 それをただぼんやりと見つめていると、さすがに声がかかった。
「汚れ物を始末してきてくれ」
「あ、はいよ、と」
 慌てて、堆く繃帯の載ったトレーを持って寝室を出る。
 作業を言いつけることより、それ以上ルーファウスの肌をレノに見せないための指示だと分かったからだ。
 繃帯の山をビニール袋に放り込み、きっちり封をして専用のダストボックスへ入れる。
 専門の業者がヒーリン全体の汚物を回収している。体液からの感染が完全に否定できない以上、その取り扱いは危険物だった。
 自然と溜め息が零れた。
 ひどく緊張していたのだと気づく。

 
「着替えを取ってくれ。新しいパジャマが」「いや、シャツとスーツを」
 部屋へ戻ったレノにツォンが声をかけると同時に、ツォンの腕の中で思いの外はっきりした声が命じた。
「社長!」
 いつ目覚めたのか、支えられた身体を起こしてルーファウスはレノを見る。
「今日は客がある。寝ているわけにはいかない」
「ですが」
 途惑うツォンの声は、しかしきっぱりと遮られた。
「スーツだ。レノ」
 
 震える腕をようやく袖に通す。
 そんな動作さえ、酷く辛そうだ。
 ツォンは渋々ながらそれを助けている。その手つきも手慣れていて、かなり前から手伝っていたのだろうと思わせた。こんな日常の行為すら不自由なほど彼の病状は悪化していたのだと、気づきもしなかった。いや、気づきたくなかったのか。
 身体に巻かれた繃帯が隠れると、ほっとした。
「リーブが来る。WROの方向性について、最終調整の件だ。あいつも忙しいようだから、これを逃すと次がいつになるか分からん」
 本当は――
 次は無いのだと言外に言っている。
「危うくすっぽかすところだった」
 額に手を当てて目を閉じる様子は、目眩いがするのだろうと知らしめた。声のトーンを落として何気ない風を装っているけれど、肩で息をしているのは隠しきれない。
「くそ、ぐらぐらする。ツォン、あの薬は使うなといっているだろうが」
「今回は発作がひどすぎました」
「それは私が判断することだ! こんな寝ぼけ状態でリーブと渡り合わせる気か」
「部長と勝負するわけではないでしょう。社長の体調が思わしくないことは部長も承知されているはずです」
「あいつはまだWROの軍事化を了承していない。急ぐべきだという私の意見も聞き入れない。おまえは私に哀れみを乞えというのか? そのくらいなら色仕掛けの方がましだ」
「その身体で色仕掛けはご無理でしょう」
「レノ!」
 緊張感に欠ける二人の掛け合いをぼーっと聞いていたレノにいきなりルーファウスの声が飛ぶ。
「赤いラベルの薬は全部捨てろ」
「社長!」
「すぐにだ」
 ツォンの制止など意に介さない強い声だった。
「はいよ、と。…でも、あれ高い薬なんだろ?と。欲しいヤツいるんじゃないのか?」
 このヒーリンには星痕症候群の患者が集まっている。
 病を治療する薬がないことは確かだが、対症療法として痛みを抑え症状の進行を遅らせる効果のある薬品は僅かながら認知されていた。
 だが、貧困故にそれを手に入れることが出来ない者も数多くいることを、レノは知っていた。捨てるくらいならばそれらの人々にくれてやったらどうかと、そう思ったのだ。
 だがルーファウスの返答はレノを絶句させた。
「あれは私のために調合されたものだ。治験のすまない成分も含まれている。その了解の上で使用しているのだ。だから他人には投与できない」
「え…。…それって、…もしかして実験台ってことか?」
「そういうことだ」
 ルーファウスの返答には、なんの感情もこもっていなかった。
「なんで社長が、そんな」
「効果はある。私にはそれで充分だ」
 返す言葉がなかった。
 酷い発作の様子を目の当たりにしたことも、知らされた事実も、レノを打ちのめした。
 考えないように。
 見ないようにしていたその現実が目の前に立ちはだかる。
 
 彼は死ぬのだ――
 そう遠くない未来に。

 星痕を発症した者で、治癒した例はない。
 生存期間に多少の差異はあれ、発症したが最後必ず死に至る。致死率100パーセントの死の病だ。そしてルーファウスはすでに発症から半年を過ぎている。確認されている中では最も長く生きた患者だといってもいい。それは即ち、彼はもういつ死んでもおかしくないのだ、という意味に他ならなかった。
 
 気づくと、ぽかんとした表情の二人に見つめられていた。
 珍しいものを見た、と一瞬思ったが次の瞬間には『何故?』と思い直していた。そしてその二人の姿が歪んでぼやけていることにも気づいてしまった。
「あ、え?」
 自分で出した声に狼狽えた。
 反射的に顔をこすると、思いきり濡れていた。

「何を泣いている」
「泣いてなんかいないぞっと。これは目から汗が」
 揶揄うような声音に、反射的に言い返していた。
「おまえは意外と涙もろいな」
 くっくっと喉の奥で笑いながらルーファウスが眼を細めた。
 誰のせいだよ、と謂れのない腹立ちがわく。
「俺は泣いたりしないんだぞっと」
「そうかな? あの時もおまえは大声で泣いていたような気がするが?」
 ――あの時?
 ツォンの顔を見ると気まずそうに視線を逸らせている。それでレノは『あの時』がいつのことかようやく思い当たった。
 ツォンとルーファウスが組んでヴェルド主任親子の救出劇を演出した時だ。
 まんまと騙されたレノとルードは、二人がツォンに撃たれたと思いこんで悲嘆にくれた。
 周りを騙すために必要だったと後から説明されたが、理不尽だとの思いは否めなかった。
 それを、あろう事かルーファウスも見ていたというのだろうか。
 そう――
 あの頃彼は世界に張り巡らされた監視網を使ってあらゆることを覗き見していた。地面に落ちたギル硬貨の額まで分かると噂されるスパイ衛星の画像にもアクセス出来たのだから。
 当然、自分の仕掛けた作戦の経緯も見ていたはずだった。
 覗き見されていたこともむかつくが、気づいて当然のことに今に至るまで気づかなかった自分にも腹が立つ。
 むっと押し黙ってしまったレノに、ルーファウスが手を伸べた。
「レノ」
 呼びかける声は甘く優しい。
 傲慢だ冷酷だと巷ではそればかりの人物のように言われていたが、その実ルーファウスは驚くほど多様な顔を使い分ける。こんな声で語りかけられて、逆らおうという者はいないだろう。それは直に接しなければ決して分からない彼の特技だ。
 レノは差し出された手を取る。
 ルーファウスはちらりとツォンを見やって目配せした。
 ツォンは一礼して部屋を出て行く。
 握った手は熱く、ほんの少し汗ばんで微かに震えていた。平静を装っていても痛みが消えたわけではないのだろう。
 つまらないことでいらついていた気持ちが、一気に降下する。
 
「レノ」
 ルーファウスは掴んだ手を引き、レノの首に腕を回した。
「案ずるな。私はまだ死にはしない」
 レノは息を呑む。本人の口から『死』という言葉を聞くのはやはりショックだ。だが。
「こんな事で、おめおめと引き下がってたまるものか。ジェノバにも星の意志にも、これ以上この世界を荒らすことは許さない。そうだろう?」
 続くルーファウスの言葉は思いの外力強かった。
「カンパニーの犯した過ちは大きかったが、その目指したものすべてが悪だったわけではない。古代種の生き方がもっとも善きものだったとも思わない。人には人の生き方があり、我々にはそれを護る義務がある。だから、」
 ルーファウスは身体を引いてレノを見つめる。
「私のために死ぬ気で働け、タークス」
「…リョーカイだぞっ、と」
 笑い混じりに放たれた言葉に、レノは今度こそ即答する。
 ルーファウスの背に回した腕に力を込め、柔らかな髪に鼻を埋めた。甘い匂いが鼻腔を擽る。彼がまだ副社長と呼ばれていた頃、時折こうして戯れあったのを思い出す。
「その代わり、絶対良くなれ、社長」
「ああ」
 こちらも即答だ。
「まだまだたっぷりこき使ってやるから、覚悟しておけ」
「ボーナスはずんでくださいよ、と」
「結果が出せなければ減給だ」
「あ、ひでェ。血も涙も無いぞ、社長」
「当然だ。血も涙も―――流すのはおまえたちだからな。私には不必要だ」

 レノは両腕を開いて天を仰ぐ。
 降参だ。
 どうやったって、この人にかなうわけがない。
 そう―――
 初めて会った時から一度だって。

 だから。
 心配も不安も無用だと彼が言うのなら、そうなのだろう。

「しゃちょ」
 レノは顔を寄せてルーファウスを見つめる。
「なんだ?」
「それでもやっぱり、たまにはオレにもごほうびが欲しいんだぞ、と」
 言うなり素早く唇を重ねる。
 ルーファウスは一瞬体を固くしたが、すぐに力を抜いて口付けに応えてきた。
 隣でツォンさんが額に青筋立ててるだろうなあ、と思いながらも暖かな唇の感触と巧みな舌の動きから離れられない。
 金の髪をまさぐり、薄くなった肩を抱く。

 社長。
 絶対アンタを死なせたりしないから。
 オレ達が絶対助けるから。

「あー、やべェ、ちんこ痛ェぞっと」
「ご褒美が欲しいんじゃなかったのか」
 身体を離して立ち上がったレノを、濡れた唇を舐めながら上目遣いにルーファウスが見上げる。細い指がレノの股間に這わされる。
「うわ、それ、ヤバすぎだって、しゃちょ。そんなの貰ったらツォンさんに殺されるぞっと」
 股間を押さえてレノは後退った。
「そうか。タークスのチームワークにヒビを入れるのは本意ではないからな」
 しれっと言い放ち、ルーファウスは車椅子を反転させる。

 ひどく惜しいことをしたと思う間もなく、レノの肩に手が置かれた。
「もうすぐ部長がみえられる。外で出迎えを」
 これ以上ないほど事務的な声が後ろからかかってレノは硬直する。

 いつからいたんだ、ツォンさん!?
 という声はかろうじて呑み込んだ。

「お、おう」
 ようやく返事してそのまま部屋を飛び出す。
 その後ろで、
「部長ではない、局長とお呼びしろ」
 とのんびり訂正する社長の声が聞こえていた。

end




深刻そうに始ったわりに、まぬけなギャグで終り…_| ̄|○
結局何が書きたかったのか、自分でも謎だ…vv
GLAYArenaTour2007-LOVE IS BEAUTIFUL-セットリストタイトル化計画、第2弾(笑)