if…Prologue ようやく救出されたとき、少年はほとんど虫の息だった。 全裸で床に転がされた身体は傷だらけで、抱き上げても呼びかけても返事はない。ただ、脚を伝い落ちる血の温かさだけが、彼がまだ生きていることの証だった。 それでも彼はなんとか命を取り留め、3日後には意識も戻った。 そのルーファウスが真っ先に呼んだのは、タークス主任のヴェルドだった。 少年は眼を眇めて、誘拐を防げなかったこと、救出に時間がかかったことを謝罪するヴェルドをしばし眺め、それから口を開いた。 「犯人はどうなった」 「実行犯はすべて確保しました。今は協力した者の割り出しを続けています。社長は妻子に至るまですべて捕らえよと」 「ばかばかしい」 掠れた声ではあったが、強い口調でルーファウスは吐き捨てる。 「そんな事をしても反感を買うだけだ。報道はどうなっている」 「貴方が誘拐されて救出された、ということは報じられましたが、詳しい事情はまだ伏せられております」 「私が暴行を受けて瀕死の重傷を負ったことを公表しろ」 「は…」 「写真や録画があったろう」 「…はい」 「できる範囲でそれも公開しろ」 「しかし」 「表には出せなそうなものも、裏から流してやれ。スクープ誌が飛びつきそうなやつだ」 「ルーファウス様…」 「反神羅組織など、どんな大義名分を掲げようと、所詮子供を拉致して陵辱するようなクズだと、世間に知らしめるんだ」 「は…」 「私はまだ14で、見た目はもっと幼い。子供に性的暴行を加えるような者を世間は決して認めない。これ以上の宣伝効果はあるまい」 ヴェルドは反論も諫言もできず沈黙した。 ルーファウスの言うことは確かに正論だ。 しかし、あの父親でさえやろうとしなかったことを、まさか本人から命じられるとは思いもしなかった。 長くしゃべりすぎたのか、ルーファウスは眼を閉じて苦しげな息づかいを繰り返している。 なんとか持ち直したとはいえ、彼の容態は予断を許さない状態だ。 本来ならばこんな会話もするべきではない。医師の判断はまだ絶対安静なのだ。 「すぐ取りかかれ、ヴェルド。機を逸しては話にならん」 「…はっ」 了承する以外無かった。 ヴェルドは社長直属の部下であり、信任も厚い。いきおい、ルーファウスともごく幼少の頃から顔見知りである。 だが、屋敷からほとんど出ることのない子供の内実を知る程に親しかったわけではない。 頭が良く、大人びた子供であるとは思っていた。 だが、少年の言動はヴェルドにとっても驚愕だった。 自身の身に降りかかったこの災難を、宣伝の好機と言いきるなどいったいどんな精神構造をしているのか。 ルーファウスはカンパニーの社員でもなく、ただ社長子息であるに過ぎない。次期社長という遠い将来は描かれているものの、まだまだ子供と言っていい年のルーファウスには夢物語にも等しいはずだ。 その子供にとって、神羅カンパニーはいったいどういう存在なのだろう。 行けと言われたにもかかわらず去りがたく、苦しげに眼を閉じた子供の顔を見つめていると、医師たちが駆け込んできた。 「お引き取りを」 と言われ、病室を追い出される。 携帯を取りだし、ルーファウスの指示を実行すべく部下に命令しながら、もう一つ思いついたことを伝えた。 ルーファウスはうっすらと眼を開く。 いったい今がいつなのかも、よくわからない。 目覚めてはまた意識を失うことの繰り返しだった。 身体は重く手を上げることさえ難しい。痛みと息苦しさはまだ去る気配がない。 ヴェルドと話したことは覚えている。言うべき事を言えば、後は任せてしまっていい。 自分のやる事はもうない。 だが薬のせいで一向に意識がはっきりしない状態は腹立たしかった。 強く目を瞑ってもう一度開く。少しだけ視界がクリアになった。 すると、見慣れないものが視野の隅にあることに気づく。 そちらを見ると、それが人であることがわかった。 「タークスか?」 特徴のある黒い制服は、見ればわかる。 「ツォンと申します、ルーファウス様」 「ここで何をしている」 「貴方の護衛を言いつかりました」 「護衛…ここで?」 「はい」 「なにか、護衛が必要になるような事態が予測されるのか?」 ルーファウスの疑問はもっともだった。 この病室は本社に付属した医療施設の奥まった一室で、カンパニーの要人しか受け入れない。当然警備も厳重で、その上になお身辺警護を付けるには相当の理由があるはずだ。 「いえ、そういうわけではありませんが」 「ならなんだ?」 「ヴェルド主任から、貴方のご様子を報告するようにと」 「警護ではなく私の見張りか?」 「貴方を誘拐犯から守れなかったことは我々の落ち度ですから」 「あの日タークスは私の警護には当たっていなかった」 「そうであるべきでした」 不毛な論議に疲れたかのように、ルーファウスは眼を閉じる。 「申し訳ありません。お疲れになりましたか」 「いや、いい…」 重篤な状態をやっと脱したばかりだ。 話をするのも負担だろう。 彼を誘拐した男たちは、一切手心を加えることもなく情け容赦なく彼を陵辱したのだ。 骨折、打撲は言うに及ばず、激しい性的暴行で内臓まで傷つき、火傷や切り傷も無数に見られた。 現場から見つかった録画や写真を、ツォンはもちろん全部見ていた。 画面の中の少年はじかに見るよりなお幼く、頼り無かった。 泣き叫ぶ小さな子供を殴り、蹴り、強姦する犯人達の様子が報道されると、人々の神羅親子への同情はいや増し、反神羅を標榜する者たちへの風あたりは強くなった。ルーファウスの構想通りに。 もちろん性的凌辱の場面など表に出せるはずもなく、写りの悪い僅かな静止画が流出しただけだったが、少女と見まごうばかりに可憐な少年がそういった欲望の対象になるのは誰もが容易に想像することだった。その人々の好奇心を満足させ、犯人達に対する嫌悪感を募らせるにはそれで十分だったのだ。 だが実際に残された記録は、そんな生やさしいものではなかった。 犯人達はなぜそんな記録を残したのか、とツォンは思う。 脅迫に使うつもりだったか、あるいは後で見返して楽しむつもりでもあったのか。 どちらにしても犯人達は神羅カンパニーをどれほど甘く見ていたのか。 舐められていたと思うと腹立たしいが、社長子息を誘拐されるという手落ちは、取り繕いようもないものだった。 たとえその時タークスが直接彼の護衛に当たっていなかったとしても、その計画を未然に察知し防げなかったことがすでに落度だ。 そのために少年が味わった恐怖と絶望はいかばかりであったかと思うと、胸が痛んだ。 「本当に申し訳ありません。我々が至らないばかりに、貴方に怖ろしい思いをさせてしまいました」 気づけば、言うつもりもなかった謝罪が口をついて出ていた。 『あの方は無用の謝罪などは好まれない、言葉には気をつけろ』と言われていたのに。 「怖い…? そんな事を思う暇はなかった。おまえたちが私を見つけ出すまで生き延びることだけで必死だったからな」 だが、返された言葉にツォンは瞠目した。 彼が自分たちに寄せる信頼の厚さ――否、認識の高さと言うべきか。カンパニーの持つ力とタークスの能力を、犯人達に比べても遥かに正確に把握している。 たった15の子供だというのに。 「奴らは最初から私を生かして帰す気がなかった。素顔を晒していたし、扱いも乱暴だった。いつ死んでもかまわないと考えていたからだろう」 驚くべき冷静さだ。 怖いと思う間など無かったというのも、強がりなどではないのか。 「ただ、奴らは私を簡単に拉致出来たことで気をよくしていたし、油断していた。それに、一人だけ毛色の違う男がいて、そいつは明らかに猥褻目的で私に執着していた。だからそいつに取り入れば時間稼ぎができるとふんだんだ。せっかく手に入れた獲物を簡単に殺してしまっては楽しめないだろうから、そいつだけは私を少しでも長く生かしておきたいはずだろう。その男はカンパニーの社員で、とんでもない変態だったが、他の男たちに比べれば暴力的ではなかった」 その男がこの少年に何をしたか、録画は克明に記録していた。 眼を覆いたくなるようなおぞましい行為の数々を、彼がどんな気持ちで堪え忍んだのか、ようやくわかった。 録画の中の少年はその行為を受け入れ、あまつさえ男に媚びることさえしていたのだ。 「そいつが私の顔に執着していたおかげで、顔を殴られることが少なくてすんだのは幸いだった。頭部に傷害を負うことはなるべく避けたかったからな」 ルーファウスは薄く笑う。 その笑いの意味は、ツォンには計りかねた。 だがこんな話をしながら笑えることが、驚きを通り越して薄気味悪くさえある。 冷徹に相手を観察し、分析し、生き延びるための方策を立て実行しうる意志の力。 プロのエージェントとして訓練を積んでいるタークスでさえ、そこまで出来る者はそういない。 しかもようやく自分たちが誘拐犯のアジトを見つけ出したとき、彼は瀕死の状態だった。あと少し遅れていれば、命はなかったろう。 それほどの暴力に晒されて、15の少年が自我を保っていられたことも驚異だ。 ツォンは返す言葉もなく沈黙した。 「そう不景気な顔をするな。おまえたちは私の信頼に応えてくれた。だから私は今、ここにいる」 「は…ありがとうございます」 深く頭を下げながら、ツォンはなぜ彼はこんな話を自分にしたのだろう、と思う。 タークスとはいえ、初めて会った相手だ。 まだ声を出すのも辛いであろう状態で、これほどに長く喋り続けた理由は? 掠れた小さな声で途切れ途切れに彼の語った内容は、衝撃的であっても整然としていた。 それは、彼が語ることを必要としたからではないのか――と思い当たる。 一人で抱えるにはあまりにも重すぎる経験だ。 今後、カウンセリングなどは当然行われるのであろうが、なんとなく彼はそういう者たちを信用しないような気がした。 自分に打ち明けたのは、タークスだからだろう。 神羅カンパニーにおけるタークスの意味を、この少年はよく把握している。 もしかしたらヴェルド主任はそこまで見越して自分をここへ寄越したのだろうか。 そしてもしかしたら、この少年もそれをわかって自分に話しかけたのだろうか。 確かに自分ならば彼の話を外部にもらすことはない。逆に、ヴェルド主任には確実に伝わるだろう。 自分の与えられた任務は、彼のことを報告せよ、というものなのだから。そして主任はそれを誰にも伝えないだろう。おそらく彼の父親にも。 主任が自分にこの少年の護衛をせよといった理由が、初めて納得出来た気がした。 主任は、この子供がただの社長子息ではなく、まさに将来のカンパニー社長となる人物だと判断したのだ。 それは同じことのようでいて意味合いはまったく違う。 社長子息、というだけならば、言ってしまえば幾らでも替えがきく。プレジデントはまだそれほど老齢というわけではなく再婚も可能だ。 だが、真にカンパニー社長として相応しい器を持つ者となると、そう簡単にはいかない。 この子がそうであるなら、タークスにとってはかけがえのない人物だということになる。決して失うわけにはいかないのだ。心身共に。 いくら平然として見えても、あれほどの経験をして心的外傷が残らぬわけがない。 この少年を護る、という任務は、とても重要であると共になかなかにやっかいなものだろうとツォンは密かに思った。 「ツォン、と言ったか」 再びルーファウスが口を開いた。 「はい」 「こんな所で子供のお守りとは、貧乏くじだな」 口元に薄く笑いを刷いてはいるが、瞳は閉じたままだ。喘ぐような呼吸が痛々しい。 ツォンは一歩、ベッドの彼に近づいた。 「そうは思いません」 ふっ、とルーファウスが眼を開く。 薄暗い灯りの下で灰色に近く見える瞳が、ツォンを捉えた。その眼には疑問が見て取れる。 ツォンが自身の心情を述べたことが意外だったのか。 おそらく『任務だから』と答えると、考えていたのだろう。 「貴方は」 もう一歩近づき、少年と目を合わせる。 怯むことも拒むこともなくツォンをじっと見つめる瞳の蒼が、深くなる。 「いずれ私の主人となられる方だ」 ルーファウスは目を見開き、幾度か瞬きした。 「は…」 今度こそ、心底楽しげな笑いがもれる。 「まるでプロポーズだな…」 少年はツォンを見て笑い、そして何か言いかけたまま瞳を閉じて寝入ってしまった。 むしろこんなに長く意識を保っていられたのが不思議なくらいだ。 体力はぎりぎりのラインな上、痛みを抑え安静にさせるために強い薬も使われている。 疲れたのではあろうが、少しは安心もしてくれたのではないかと思うと、嬉しかった。 僅かの会話を交わしただけだが、ツォンの言葉に嘘はない。それは勘やでまかせではなく、論理的帰結だからだ。 己惚れではなく、ツォンは次期タークス主任として自他共に認める立場にいる。だとすれば、プレジデントがヴェルド主任の主人であるように、いつかこの少年がツォンの主人となるのだ。 わざわざツォンを選んでこの任務に就かせたヴェルド主任の意図も、そこにあるのだろうと思われた。 今ここでルーファウスの信頼を得ておくことが、彼のためにもツォンのためにも必要であると。 それに少しでも成功したなら、喜ばしいことだとツォンは思った。 眠る少年はあどけなく可憐で、口を開いたときの苛烈さは想像もできない。 もう少し笑った顔が見たかったと思っている自分に気づいて、ツォンは苦笑した。 『良くできている…』 ヴェルドは苦虫を噛みつぶしたような顔で腕を組んだ。 目線の先のモニタの中では、金髪の少年が男に組み敷かれている。喘ぐように仰けぞらされた顔に浮かぶ表情は、苦悶なのか悦楽なのか判じがたい。 次のカットでは、男のものを小さな口に含んで真摯に舐めまわす姿が映し出される。放たれた精液を飲み下す様子まで見て取れるクリアさだ。 CG――というわけではないが、細部にいたるまで修正が施され上手く繋ぎ合わされた映像だ。 もとの映像にあった凄惨さは欠片もなく、ただの児童ポルノにしか見えない。 そしてその主演は紛れもなく神羅の御曹司だった。 暴力シーンは一切映っていないだけでなく、身体につけられていた傷や痣や飛び散った血などは綺麗に消され、ご丁寧に滑らかな肌に浮かぶ汗まで描かれている。 『どうしたものか…』 ヴェルドの苦渋の原因は、この映像の出所だ。 これがネットで流された悪戯のようなものなら、話は簡単だ。犯人を割り出し、始末すればいい。ほんの出来心だったかもしれないが、選んだ相手が悪かったと地獄で反省させるだけだ。 しかし、そもそももとになった映像を入手できる者はごく限られている。というか、自分と社長以外にはたった一人しか思い当たらない。 もちろん自分ではなく、社長でもないだろう。社長はその映像の一部をちらりと見るなり席を立って、その場にはもう戻ってこなかったのだから。 さすがに、年端もいかぬ我が子がこうむった謂れ無き暴虐は胸にこたえたらしい。その後は息子に対する態度が、幾分和らいだようにヴェルドには見えるのだった。 ルーファウスはカンパニーの跡取りとして厳しく育てる、というのが社長の持論だった。そしてその主張の通り、あの子供は遊ぶ間もないほど緊密なスケジュールで締め上げられ、泣くことも笑うことも許されないような日々を過ごしてきた。 だがそれもこれも、次期社長という前提あってこそのことだ。 その前に死んでしまったら――― そんな可能性に、あの父親は初めて気づいたのだろう。しかもそれがカンパニーへの憎しみの標的としてだとしたら。 息子は自分の身代わりになったといっても過言ではないのだ。 退院までに一月を要し、その後も在宅での治療やリハビリに数ヶ月を費やした息子に対し、父親は随分と甘くなった。 初めは訝しんでいたルーファウスだが、やがてそれが父親なりの謝罪だと気づくと、最大限に利用し始めた。 それまで制限されていたさまざまなデータへのアクセスや、禁止されていた外出の許可、その際にツォンを付き添わせること、など渋る父親とヴェルドを口説き落として次々と実行していった。 ―――その結果の一つが、これだ。 ヴェルドは頭を抱える。 こんなものを作ることもだが、それが何のためかというのがもっと問題だった。 つまり、これを鑑賞させる相手が、である。 それは本当にひっそりと、ごく限られた人間の間でだけ囁かれる噂だった。 タークスの耳に届いたのも、しばらく経ってからのことだったのだ。 神羅の御曹司が誘拐されたときの映像があるらしい。しかも、その辺のポルノも顔負けらしい――と。 ヴェルドが手に入れたこれはオリジナルで、画質も良く尺も長い。 実際に外に出されたものはもっと不鮮明に加工された、短いものだった。 それでも、それを見た者に『神羅の御曹司』に対する邪な欲望を喚起させるには十分だったのだ。 NEXT |