MIRROR







 3日間の単独任務から戻ったとき、ツォンはロッジの内部に微かな違和感を抱いた。
 いつもと同じ、家具もほとんど無いがらんとしたリビング。
 違和感の原因はもちろんそこではない。
 その奥にあるルーファウスの部屋。
 そこに人の気配がある。
 それも一人。

 ルーファウスが一人でいることはまずあり得ない。
 必ずタークスの誰かが護衛に付く。
 今は、4人のうちの一人だ。
 だが、その中の一人がルーファウスの私室にいるという状態は考えにくい。
 そこはもちろんオフィスとしても使われていたが、健康状態の思わしくない主人のためにベッドが設えられ、プライベートとしても機能していたからだ。
 タークスといえど一人で私室にはいることをルーファウスは許可しなかった。
 だから、この気配はタークスのものでもルーファウスのものでもないはずだった。

 一瞬の間にその判断を下し、ツォンはそっと私室に通じるドアに忍び寄る。
 耳を澄ませば、ごとごとと床を叩くような音と共に、微かな呻き声がする。
 それは、聞き違えようもない主の声だった。

「社長!?」
 ドアを乱暴に開け放ち、踏み込んだツォンが見たものは床に倒れてもがいているその人の姿だった。
 慌てて駆け寄り、抱き起こす。

「どうなさいました!?」
「…っ、脚が」
 縋る腕に力を込め、ルーファウスは唇を噛む。
「ああ、また痙攣を起こされたのですね」
 ゆっくりと脚をさすると、ルーファウスはくぐもった呻きを洩らした。
 ウェポンの神羅ビル攻撃の際の傷は、表面上癒えたようであっても神経や脊椎に負った損傷は回復したとはいいがたく、時折こうしてルーファウスを苦しめた。

「痛みますか? 今、薬をお持ちします」
 そう言って離れようとしたら、より強く縋り付かれた。
「行かなくていい…」
「でも、痛むのでしょう?」

「いい。ここに、いて、欲しい」

 脚をさすっていたツォンの手が止まる。
 今、この人はなんと言われた。
 あまりにも聞き慣れない言葉に、頭が理解することを拒否したようだった。
 
「社長?」
 思わず問い返していた。
「何度も、言わせるな」
 俯いた顔の表情は見えない。
 だが返された声は恥じらいを含んで甘く、ベッド以外では聞いたことの無いようなものだった。
 いったい何事ですか、とまたも問い返しそうになって、危うく言葉を呑み込む。
 再度に渡る問いかけは、ルーファウスの最も嫌うものだった。
 主人の真意はわからなくとも、縋り付く腕の力からその意図は明白だった。
 
「車椅子はどこに?」
 とりあえず冷たい床からルーファウスを抱き上げ、室内を見回したツォンは首を傾げた。
 いつも使っているはずの、車椅子が見えない。
「持って行った」
「誰が?」
 だがルーファウスはその質問には答えず、ツォンの胸に顔を埋めるようにして押し黙った。
 どうにも状況が飲み込めない。
 だがそんなツォンの疑念は、腕の中のルーファウスによって遮断された。
「ツォン…」
 常ならば、こうして抱き上げられていることも厭う人だ。
 それが、腕をツォンの首に廻して身体を押しつけ、なおかつ頼りなげな声で名を呼ばれれば驚きながらも愛しさがこみ上げる。
 何か新しい遊びでも思いついたのか、という疑念はぬぐい去りがたくあったが、それでもこの魅力には抗しがたい。
 ツォンはルーファウスの身体を抱いたまま口付けた。
 
 逡巡いもなく返された口付けに、なおも深く唇を合わせ、舌を絡め合う。
 存分に互いを貪り合ってから、ツォンはルーファウスの身体を寝台に下ろした。 
 
「覚えているか?ツォン。私はおまえに、カンパニーの社長になると約束した」
 忘れるはずもない。
 神羅を捨てて共に逃げようと手を伸べたルーファウスに、社長になれと迫ったのは自分だ。それが正しかったのかどうかは、いまだに――いや、むしろすでに、というべきか――判断できない。
 あのとき逃げていれば。逃げ切ることが出来たかどうかはともかく――まったく別の人生が自分たちにはあったのだろう。
 だが、それは今この世界に『ルーファウス・神羅』がいないということだ。
 もしそうなら、神羅の残した爪痕はもっと救いようのない状態になっていただろう。
 プレジデント亡き後のカンパニーを、あの動乱の中で支え続けることすら不可能だったに違いない。
  
「ツォン、おまえは…私を浅ましいと思うか?」
「は?」
 聞いた言葉を聴覚が拒否した気がした。
 なんのつもりでそんなことを言い出したのか、見当も付かない。
 うかつに返事など出来るわけもない。
 ツォンはただ固まったまま、ルーファウスを抱く腕に力を込めた。

「私はカンパニーを分割解体するつもりだった。それが上手くいけば、カンパニーはもっと普通の、あたりまえの企業になる。そうしたらおまえたちはもう汚い仕事に手を染める必要もない。神羅から自由になることも可能だ。その時はおまえたち自身に進むべき道を選ばせようと、そう思っていたんだ」
 ルーファウスはゆっくりと言葉を紡ぎ、俯いた。
「けれど今、すでにカンパニーの実体は無く私は社長ではないにも関わらず、おまえを手放せないでいる。ここに止まる必要など無いのだと言わねばならないのに、相変わらず危険を伴う仕事を押しつけてばかりだ」
「社長、それは」
「私が問えば、おまえはきっと自分の意志でここにいるのだと言うだろう。それを疑うわけではない。それでも」
 上げられた瞳は濡れて潤んでいた。
 その透き通った蒼に、ツォンは言葉を失う。
「おまえが私の望みに沿っているのではないとどうして言える? 無言のうちに私がおまえにそれを要求しているのではないと、おまえは言い切れるか」
 開かれた瞳から雫がこぼれ落ちる。頬を伝うひと筋の水滴が、ツォンの胸を締め付けた。
「私はおまえを手放したくない。私の側に、いつまでも留めておきたい。仕事にかこつけてそんな気持ちを誤魔化しているんだ。誰が気づかなくても、自分の浅ましさは自分が一番よく知っている」
「ルーファウスさま…貴方に望まれることは私の歓びです。貴方に触れることも貴方の命を受けることも。それを望んでいるのは貴方ではなくむしろ私です」
 ツォンはルーファウスの頬を伝う涙を舌先ですくい取る。塩辛いはずのそれは、何故かひどく甘く感じた。
「ツォン…」
 囁かれる声も、甘く柔らかい。
 その唇を貪り、縺れるようにシーツに倒れ込む。
 夢中で服をはだけて

「ツォン」

 ―――は!?

 背後から、この上なく冷たく醒めた声がかかった。
 間違うはずもない、よく聞き知った愛しい人の声―――だが、その声には愛しさの欠片もない。

「私のベッドで何をしている」

 思わず振り返った目に飛び込んできたのは、ドアに凭れて蔑むような視線を自分に向けているルーファウスの姿だった。

「は、? え? え? いったい、これは」
 狼狽えて意味のない声を上げ続けているツォンにルーファウスはうんざりした声を掛ける。
「とにかくソレを仕舞え」
「は、うわっ、わわわ」
 ルーファウスの視線が突き刺さっているのは、むき出しのまま天井を指しているツォン自身だ。慌てて下着に押し込む。
「あっ、あだだだだ」
 あまり慌てていたので、ファスナーに挟んでしまった。

「はぁ〜」
 盛大な溜め息はもちろんルーファウスだ。

 だがちょっと待て。
 あまりの痛みに涙目になりながらツォンは考えた。
 それなら今の今まで腕に抱いていたのはいったい誰だというのか。
 ますます混乱してツォンはベッドを見返る。
 だがそこにあるのは乱れたシーツばかりだ。

「そんな…、そんな馬鹿な!?」
 悲鳴のようなツォンの声も、ルーファウスの同情をかうことはできなかったようで、
「申し開きの内容によっては解雇も考えるぞ」
 と最後通牒を突きつけられた。
「しゃ、社長、そんなっ」
 ツォンは焦りのあまりシーツを握りしめて立ち上がった。

 かつん…

 固い音が響き、床の上を光るものが転がってゆく。
 二人の視線がそれの上で交わった。

「これ…は?」

「ああ」
 ルーファウスはゆっくりと戸口を離れ、優雅な動作で床の上からそれを拾い上げた。
「コピーマテリア(改)だな」
「なぜ…そんなものがここに…」
「ちょっとした実験だ。私のダミーが造れないかと試してみたんだが、どうにも役立ちそうにない。なんだ、池の鯉のマネか?タークス主任」
 声も出せず口をぱくぱくさせるだけのツォンに、ルーファウスの嫌味が容赦なく浴びせられる。

「しゃっちょー、車椅子〜」
 明るい声と共に車椅子を押して来たレノは、戸口で立ちすくんだ。
 乱れた服でシーツを握りしめ仁王立ちしたツォンと、その向かいに憮然とした表情で立つルーファウス。
 どう思いめぐらしても、何事があったのか想像も付かないシーンだった。
 
「ああ、ご苦労」
 最初に沈黙を破ったのはルーファウスだ。
 レノの押してきた車椅子にゆっくりと座る。
「レノ、イリーナにコーヒーを淹れてくれるよう頼んでくれ。久しぶりに外出などしたら、喉が渇いた」
「はいよ、と」
 固まっていたレノが、ルーファウスの言葉で救われたように身体を翻す。
  
「弁明は後でゆっくり聞こう。せいぜい私を納得させられる言い訳を考えて置けよ、ツォン」
 ルーファウスは相変わらず冷たい目線をツォンに送りながら、レノに続いてリビングへ去った。
 ツォンは立ちつくしたまま、真っ白になっていた思考にようやく色が戻ってくるのを感じていた。
 
 ―――コピーマテリア

 ではあれは、擬い物ではあっても彼の一部には違いなかったのだ。
 肩の力が抜ける。
 あれほど焦っていた気持ちが、嘘のように穏やかだった。
 あれが、普段は決して見せてくれない彼の一面だったとしたら―――
 それは全くの間違いではない気がした。

 彼の流した甘い涙の味は忘れない―――

 ツォンはひっそりと微笑んで、乱れたベッドを整え始めた。

end