ナツビ――――FF零式体験版配布記念(笑)


ミッドガルは大陸の比較的北方に位置している。
従ってさほど気温が高いわけではないが、それでも夏はそれなりに暑い。
魔晄炉の排気のせいで滅多に青空の見えない街ではあるが、ごくたまには強い夏の陽射しが照りつけることもあるのだった。

「暑い…いてっ」
ぼそりと呟いたロッドの頭に、容赦なくファイルが叩きつけられた。
「うるさい。口に出さなくてもみんな分かってるわ」
シスネの頭から湯気が上がっているように見えるのははたして気のせいか。
みんな、とシスネは言うが、今現在タークス本部にいるのは二人だけだ。

本社ビルの全空調システムがダウンし、当分復旧しそうにないと分かった時点で社長を初めとする幹部社員はまるで蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
それはもう、見事なまでに勝手ばらばらに。
そのおかげでタークスもまた、護衛にかり出されることとなった。
主任のヴェルドは当然社長について行き、他のメンバーも多くは出払っている。
レノなどは「キャハハのお守りかよー」と言いながらもスキップしながら出ていった。

本社内に残っているのは、現在本部に詰めているシスネとロッド、主任代行を任されているツォンだけだ。
そのツォンはと言えば、なぜか本社に残された副社長に付き添って58階の会議室にいた。

「社長が不在で申し訳ない」
椅子から立ち上がり、退出しようとする会見相手に手を差し出しつつ、副社長は軽く頭を下げた。
「いえ。副社長にお会い出来て幸いでした」
早々に会見を切り上げて帰途につく相手は、額の汗をせっせとぬぐいながらも名残惜しそうに差し出された小さな手を握る。
「またお会い出来る機会を楽しみにしています、ルーファウス副社長」
必要以上に長々と手を握り、ようやく出ていった相手を見送りもせずルーファウスは手近な椅子に座り込んだ。
 
「はあ…」
さすがにため息が漏れる。
手つかずのまま置かれていた手拭きを取り上げ、ごしごしと手を拭く。
一見して汗もかいていないように見えるが、きっちり着込んだスーツの中までは分からない。白皙の頬が僅かに赤みを帯びているのは、やはり暑いのだろう。
会議室はミッドガルが見渡せる大きな窓がウリだ。嫌でも神羅カンパニーの偉容を見せつけられる。しかしこの際それはじりじりと照りつける太陽が室内を炙り続けるだけのものとなっていた。空調だけでなく、窓の調光機能もダウンしていたからだ。
故にこの部屋は他の部署に比べても明らかに気温が高い。まるでオーブンの中だ。

「なにか冷たいものでも召し上がりますか」
こちらもまた暑苦しい黒のスーツに身を包んだツォンが珍しく声をかけた。ずっと置物のように直立不動を保っていたのだが。
「いい、さっきから水物ばかりで、もうたくさんだ。まあこの状況も、ろくでもない連中をさっさと追い払うには悪くないがな」
社長付きの秘書が卓に残された飲み物を下げに来た。すっかり空になった会見相手のものに比して、ルーファウスのグラスはほとんど手つかずだ。
ツォンは微かに眉を顰める。
たくさんだ、と言う割には全くといっていいほど何も口にしていない。

「次の予定はどうなっている?」
退出しようとする秘書に声をかける。
「ソレル証券様、15時のご予定です」
ルーファウスはちらりと時計に目をやる。現在時は14時35分。早めに切り上がった分、やや余裕がある。
「キャンセルする者はいないのか」
「どなたにも、社長が急なご不在で空調も不調だとお伝えはしているのですが…」
秘書は気の毒そうにルーファウスを見やって、ドアを出ていく。

「…だと。私は珍獣か何かか?」
呆れたように肩をすくめてみせるルーファウスに、ツォンは平坦な声を返した。
「副社長にお会い出来る機会は滅多にありませんから」
 
入社と同時に副社長就任したルーファウスは、どこともしれぬ場所に赴任させられていた。行き先は、ツォンたちタークスにも伏せられている。
いや、ヴェルド主任はおそらく知っているのだろうが、ツォンにさえ明かさない。
それが誰の指示かは言うまでもないが、なんのためかは今ひとつ分からない。タークスでさえそう思うのだから、一般人はましてやだ。
いきなり副社長として入社したプレジデントの一人息子。当然次期社長候補の筆頭と考えられる。しかも、たまに式典やパーティに顔を出すその少年は、あの父親の子とは思えぬ愛らしさだ。
滅多に本社には戻らぬ副社長がたまたまミッドガルに滞在中で、しかも社長の代行として会見するという。
この貴重な機会を、みすみす棒に振るようなまぬけはいなかった。

「せめて上衣をお脱ぎになっては?」
「ふん、あいつらの前で薄着になれと? 冗談ではない」
そう言われてしまうと、返す言葉がない。ルーファウスを間近で一目見ようと押しかけてくる連中は、男女を問わず好色そうな視線を隠そうともしなかった。
そんなもので不快になるほどヤワな神経ではないが、喜ばせてやる気もさらさら無い。

「むしろまずおまえが脱げ、見ているだけで暑苦しい」
「そういうわけにはまいりません」
SSではなくタークスが同席するのは、会見相手への牽制だ。
直接社長と会見するほどの相手ならば、この制服の意味が分からぬはずはない。
副社長もまた、社長同様に護られているのだということを示すためにこの場にいる。特徴のある上衣を脱いだら、ただの一般社員だ。
 
ルーファウスは卓に肘をつき、立てた手に顎を載せ、気怠げにツォンを見やってもう片方の手をひらひらと振る。

「命令だ。上衣を脱いで、袖をまくってついでにネクタイは頭に巻け」

どこの忘年会ですか!?

「馬鹿なことをおっしゃっていないで、今だけでも上衣をお取り下さい」
「いっそ全部脱ぐか? おまえが脱がせてくれるならそれでも良いぞ」
唇の端が吊り上がり、空の色を映した瞳が底光りする。
悪いことに―――副社長は十分に本気だ。
「それでは余計に暑くなりますよ」
「熱く、の間違いだろう?」
「変換ミスではございません。そもそもそういうことをやたら口にされるから、周囲にあらぬ期待を抱かせるのですよ」
「誰が言って回るか、馬鹿」
ルーファウスは盛大に顔をしかめ、
「おまえはもう下がれ。もう少し気の利いたタークスはいないのか。少なくとも今少し涼しげな者を寄越せ」
しっしっと犬でも追うように手のひらを振った。
「残念ながら本日は護衛任務が多く、皆出払っております」
「おまえひとりだけということもあるまい」
「ロッドならば残っておりますが」
「ロッド…あの赤毛の新米か」
ルーファウスは渋い顔をする。タークスの主要メンバーのリストくらいは頭に入っている。
「アレはレノ以下だな」
「申し訳ありません。部下の指導が行き届きませんで」
言いながらルーファウスに近づき、僅かに額に浮いた汗を懐からとり出したハンカチでぬぐう。
「まったくだ。なあ、不毛な仕事は切り上げて、どこかへしけ込まないか。私は暑さで不調だということにすればいい」
ツォンの手を押さえて、軽く頬を寄せる仕草。その手も頬も熱い。
「そんな言い訳が通るはずがないでしょう。社長の不興を買うだけです。それに私など相手になさってもなんの利益にもなりませんよ」
「はっ、利益? 結局おまえもそういう目で私を見ているわけだ」
ルーファウスの声が冷える。ツォンの手を払い、一瞬だけツォンを見据えた目はすぐに逸らされた。
「この顔もこの身体も、営業ツールだと。所詮おまえたちはおやじの犬ということだ」
表情の消えた顔。頬の色も心なしか白い。
「副社長…」
まずいところを突いてしまったらしい、とさすがにツォンも思い始める。
軽口と嫌味の応酬は常のこと。セクハラまがいの発言も、向けられるのはツォンだけと分かっているから咎めることはしなかった。女子社員には礼儀正しい上司なのだ。
だがこれはどうやらそんな問題ではなかったらしい。
「そんなことは十分承知している。おまえに言われなくともな」
「副社長、それは」
「下らん話で時間を無駄にした。おまえは持ち場へ戻れ」
椅子から立ち上がり、卓の反対側へ向かう。窓を背にしたそこが社長の定席だったが、差し込む陽射しは先刻にもまして強く椅子を炙っている。
 
席を移動させては、と言いかけたが、副社長は返事もしそうにない。
背後から陽射しに照らされた白いスーツと金色の髪はハレーションを起こし、まるでこの世のものではないようだ。
秘書が置いていった資料に手早く目を通し、『ソレル証券様、お着きになりました』のコールに『通せ』と応じる。一連の動作も流れるように優雅だ。
ツォンは口を挟むきっかけを失って沈黙する。

にこやかに談笑する副社長を眺めながら、これは明らかに当てつけだと思う。
相手はルーファウスが忌み嫌う父親とどっこいの狸おやじだ。しかもその父親が予定をすっぽかして行く程度の小物でしかない。
そんなに愛想を振りまく必要がどこにある。
ツォンは内心のいらだちを無表情の下に押し隠した。

あくまでもにこやかに、ルーファウスは立て続けに三件の会見を終えた。
疲れた表情も見せず、どこまでも優雅に。
その間一度もツォンの方を見ようとはしなかった。客がいるときもいないときも。
これは相当に機嫌が悪そうだとツォンは思う。
気性が激しく気分の変化も激しく、何事も思った通りにしなければ気が済まない人―――のように思われているが、実際のルーファウスは感情の起伏に乏しい冷ややかな性格だ。
思う通りにしないと気が済まないというより、全てに対して常に完璧を期して行動するために、思い通りにならない局面の方が圧倒的に少ない。だからそういった場面での反応が過剰に見えるのだ。そしてそれはほぼ社長絡みと決まっていたから尚更に。
だからこれほど機嫌の悪い彼を見ることは珍しい。
その怒りの対象が自分だと思うのは楽しいことではなかったが。
 
傾き始めた陽が黄金色の髪を美しく彩る。
退出した客と入れ違いに入ってきた社長秘書は、
「これで午後のご予定は終了です。あとは21時から会食のご予定が入っておりますが、こちらはキャンセルされてもかまわないと、社長から言付かっております」
「酒の席か」
「そうなりますね。なにぶん副社長はまだ未成年ですし、あちらも納得していただけるかと」
「ふん、出来るなら私に会わせたくない相手ということか。ならばなお、会わんわけにはいかないだろう。相手は誰だ」
秘書はしばし言い淀む。できれば言うなと指令されたか。
「…カームシティバンクのケイズ様です」
「はっ、なるほど!」
ルーファウスは声をたてて笑う。
「おやじらしい采配だ。自分で断っていけばいいものを。どうでも私から断らせたいというわけだな」
「ケイズ様とはお会いになったことがおありですか」
おずおずと聞いた秘書は、副社長に断らせろと言う社長の意図が理解出来なかったのだろう。
「パーティで三度ほどな。三年前に奥方を亡くしたとか、おやじとは男やもめ同士気が合うらしい」
「そうでしたか」
だがまだ副社長から断らせたい理由は分からない。
「だがあちらはおやじと違って、いたって誠実な紳士だ。しかもそれが何をどう間違ったか、私にご執心だ」
「それは…」
秘書にとっても想定外の答えだったのだろうが、後ろで聞いていたツォンも驚いた。
「おやじが直接断れば角が立つ。他の者たちとは会見したのに、自分はのけ者かとな」
その時ドアが開き、秘書の一人が慌てたそぶりで入ってきた。
「副社長に面会したいという方が」
「アポ無しか」
言ったのは先刻からいた秘書だ。
「はい…いいえ、」
「どちらだ」
「いらしたのはカームシティバンクのケイズ様です。副社長がミッドガルにご滞在だと聞き、夜の予定を早めて来たと」
秘書は目を丸くし、ルーファウスは喉の奥で笑った。
「ケイズ様には副社長のスケジュールはお伝えしていなかったのですが…」
「朝から何人と会見したと思う。噂はとっくにミッドガル中に広まっているだろう」
「いかがいたしますか」
「お通ししろ。追い返すわけにもいかん」
「はい」
後から来た秘書が出て行き、もう一人も卓の上を片付けてそそくさと退出する。

何か考えていたらしいルーファウスは椅子から立ち上がり、おもむろに上衣を脱いだ。タイも引き抜き、首元のボタンを外す。
露わになった細い首筋も、シャツからのぞく鎖骨の線も美しい。ちらりとツォンに視線を送る。
「おまえの助言に従って薄着になろう」
くっくっと笑いをもらしながらルーファウスは上衣とタイを椅子の背に掛けた。
「ついでに営業だ」
「副社長…」
「護衛は黙って見ていろ」
そう言われれば、口を挟むこともできない。ツォンは一礼して引き下がる。
しかし、もっと気になるのはシャツ一枚になってもその背中には汗染みひとつ無いことだ。
この部屋の気温が何度かは考えたくもないが、暑さ寒さに対する訓練を積んでいるツォンでさえ、上衣の下は汗だくだ。
それにタークスの制服は一見ただのスーツだが、防寒防暑の仕様になっている。
一年中ほぼ一定の気温の中で暮らしているはずのルーファウスが、この暑さの中で平然としているのがむしろ心配だった。

「ルーファウス副社長!」
男は部屋に入るなり両手を拡げてごく親しげに名を呼び、立って出迎えたルーファウスを抱きしめた。
それはまさに抱きしめるとしか言いようのない行動で、ハグなどという軽い言葉で表されるレベルではなかったが、ルーファウスは少しも動じず、軽く相手の背を叩いて身体を離した。
「ご無沙汰しておりました」
「お元気そうでなによりだ」
「ええ、おかげさまで」
今にも熱烈なキスでも仕掛けてきそうな相手を上手くいなし、ルーファウスは椅子を勧める。
ルーファウスはケイズ氏を誠実な紳士と評したが、見た目もどうして悪くない。年はプレジデントよりもいくらか下だろうか。すらりとした体型で、細面の金髪。ルーファウスより頭ひとつ分背が高い。目の色こそ茶だったが、こうして並ぶとまるでこちらが本当の親子のようだ。
だが、ケイズ氏が親子の関係を望んでいるわけではないのも、明らかだった。
椅子には座らず、席に戻ろうとしたルーファウスの手を握って引き留める。
「ここは話をするにはいささか暑すぎませんか。場所を変えてゆっくりと」
「申し訳ありません。私はさすがにまだ夜の遊びのお供をするには若輩過ぎます」
ケイズ氏との会見場所としてリザーブされていたのは、半裸の女性が侍るようなクラブだ。もちろん、ミッドガル一高級な店ではあったが。
「いやいや。ですから夕食でもご一緒に。堅苦しい席でなく、気楽にくつろげる場所をご用意しますよ」

これを断るのは難しかろう、とツォンは思う。
元々入っていた予定が繰り上がっただけ、という格好であるし、カームシティバンクは世界有数の銀行だ。今日ルーファウスが会見した相手たちとは、ランクが違う。神羅カンパニーとしてだけでなく、ルーファウス個人としても親交を深めておきたい相手のはずだ。
どうするのか―――と見守るツォンの前で、しかしルーファウスはあっさり承諾の返事をした。
「ありがたいお申し出に感謝します。正直、この暑さにはさすがにうんざりで」
「おお、それは良かった!」
相好を崩し小躍りしそうな相手の前で、ルーファウスは華やかに笑う。
引き込まれるようなその笑みに見とれたのはケイズ氏ばかりではない。ツォンも、飲み物のトレーを持って丁度その場に入ってきた秘書もまた、目を見張って足を止めた。
こんな顔ができたのか―――付き合いの浅からぬツォンでさえ、驚く。これが演技というなら、実にたいしたものだ。今日から俳優に転向しても間違いなくトップスターになれる。
だがなぜこの相手にそこまでする必要がある。余計な期待を抱かせるだけではないのか。それとも―――

「飲み物はいい。これから出る。その上衣を取ってくれ」
立ち止まったままの秘書に指示を出し、ケイズ氏を見上げてもう一度にっこり笑う。
そして―――
慌ててトレーを卓に置き、椅子に掛けられたルーファウスの上衣を取り上げようとした秘書と、後に付こうと一歩を踏み出したツォンと、もう一度ルーファウスの手を取ろうとしたケイズ氏の前で、ルーファウスはいきなり糸の切れた操り人形のようにくずおれた。


 
ひんやりとした感触を額に感じて、目を開ける。
目に入ったのは薄暗い見慣れぬ天井だ。
身体は自分のものでないようにだるく、おまけに吐き気と目眩もする。
ルーファウスはもう一度目を閉じて息を吐いた。

「気がつかれましたか」
密やかな声がした。
口を開くのも億劫で、返事は無視した。
状況から察するに、自分は倒れたのだろう。おそらくは熱中症だ。
ばからしい―――
くだらない意地など張らずにさっさと逃げ出していれば良かったのだ。
おやじに対する意地も、ツォンに対する意地も、子供っぽい自尊心の発露でしかない。それ以上に判断を鈍らせるものもないと分かっていても、振り回されてしまう。
自分のふがいなさにうんざりする。

「申し訳ありません」
ツォンの声が続いた。
「もっと早くに気づいてしかるべきでした」
自分の面倒もみられない子供だ、と言われているようで腹が立つ。だがその通りだから何も言えない。たとえ言い返せる言葉があったとしても口を開く気にはなれなかったが。
「幸い症状はそれほど重度ではないとのことです。一晩ゆっくりお休み下されば回復なさるでしょうと、医師は申しておりました」
どこの医者だ、とぼんやり思う。
ここが本社の医務室でないことは分かる。
「医療部の空調も良い状態とは申せませんので、こちらにお連れしました。本社に併設された病院です」
ルーファウスの疑問を察したように、ツォンの声が告げる。
そういえばそんなものを建てる計画があったと、思い出す。自分が出向している間に完成して、稼働しているのだろう。
どうでもいい情報だ―――
ツォンはおそらく自分を宥めるためにそんな話をしているのだ。無様にひっくり返ったあげく、自己嫌悪に陥っていることを見抜かれている。

入社と同時に副社長という分不相応な役職を与えられ、引き替えのように出向の名目でミッドガルを追われた。
ずっとこの街しか知らなかった。幼い頃は、屋敷から出ることさえ禁じられていたのだ。
久々に戻って―――計画中だった建物が完成するほどに時が経った―――浮かれていたのかもしれない。
ツォンの顔を見るのも、本当に久しぶりだったのだ。
空調の故障という思いがけぬ巡り合わせで、ツォンが自分の護衛に回ってきた。このことがなければ、顔を合わせるのも難しかっただろう。
ツォンと同じ部屋にいることが嬉しかった。だからあんな場所に長々と居続けてしまったのだ。
馬鹿だったと思う。
でも、同じ機会があったなら、自分はきっとまた同じ事をしてしまうのだろうとも思う。
本当に馬鹿だ―――
 
いつの間にか眠っていたのか、目を開けたとき気分の悪さはいくらか解消されていた。
天井から視線を巡らすと、影のようにひっそりと座った男が
「ご気分は?」
と尋ねてきた。
「良くなった」
と言ったつもりだったが、声は掠れほとんど言葉にならなかった。
「なにかお飲みになりますか」
「水」
相変わらず声は出なかったがツォンは頷き、すぐにグラスを用意してベッドを起こした。
グラスを受け取ろうとしてルーファウスは、片方の腕には点滴が繋がれ、もう片方の手には何かがぐるぐる巻かれていることに気づく。
「ああそれは」
ツォンはルーファウスの口にグラスをあてがいながら言った。
「倒れたときにテーブルの角に打ち付けたようです。骨折はありませんがひどい打ち身になっていたので冷やしております」
ルーファウスはゆっくりと水を飲み干し、ツォンを見上げる。
「打ったのは左手だけか?」
今度は少しまともな声が出た。
「はい。幸い床に倒れる前に抱き留められましたので」
「おまえが?」
ツォンは顔をしかめる。わざとらしい表情だ。
「いえ。ケイズ氏に」
なるほど。無表情で言うべき台詞ではない。
「護衛失格だな」
「まことに。面目もございません」
言葉とは逆に、嬉しそうな響きがあるのはなぜか。
「大事に至らなくて、本当に良かった」
今度こそ笑顔を見せてツォンが言う。
ルーファウスは目をしばたたいた。この男のこんな顔は初めて見た。
いつも鉄面皮の無表情。馬鹿丁寧な言葉遣いもいっそ嫌味かと思うくらいだ。
他のタークスに言わせると、「あれで結構情の厚い人」だそうだが、ルーファウスの前でそんな面を見せることはなかった。
ではなぜ自分はこの男に惹かれるのだろう、と考えてもよくわからない。人の心は自分のものといえど掴みがたい。
ただこんな顔を向けられると妙に気恥ずかしく、ルーファウスは俯いた。
  
「ケイズ氏は驚いたろうな」
「ずいぶんご心配されていました。大事無いと言ってお引き取り願いましたが」
「そうか」
しばし沈黙が下りる。
珍しくツォンが何か言いたげらしいとルーファウスは気づく。
「なんだ?」
「あのまま―――お出かけになっていたら、どうなさるおつもりだったのですか」
「あのまま?」
ツォンの問いかけがぴんと来ず、ルーファウスは考え込む。
「ケイズ氏は明らかに…その、貴方に」
「ああ、そのことか」
ようやく核心がつかめ、ルーファウスは皆まで言わせずツォンの言葉を遮った。
「何もありはしない。食事をして会話して、終わりだ。せいぜいがキス止まりだな」

せいぜいがキス?
それも営業のうちだとこの人は本気で言っているのだろうか。

「彼は誠実な男だと言ったろう。身体目当てというわけじゃない」
「そうでしょうか」
「だからおやじが警戒しているんじゃないか。彼は本気で私の恋人になりたがっているんだ。私が女だったら迷わず求婚したろうな」

倍以上も年が離れているのに!?

「別に珍しい事じゃない」
ツォンの戸惑いを察してルーファウスは言う。
確かに、ルーファウスが属するような富裕階級ではしばしば聞く類の話だったが。

「それでは確かにプレジデントもご心配なさるでしょう」
ルーファウスは一瞬きょとんとし、それから顔をしかめて目を逸らした。
「おまえ、本気で言っているのか」
なにを―――だろうか
「おやじが警戒しているのは、彼が私の側につくことだ」

ワタシノガワ―――
二人の親子仲の悪さは誰もが知るところだったが、こうもはっきりと言い切られるとさすがに驚く。彼らの間にあるのは権力闘争だけなのか。
 
「彼はおやじが廻してくるような奴らとは違うから、おやじも対応しかねているんだ」
「廻して…?」
「それこそ営業というヤツだ。正確には枕営業とかいうのか。…なんだ、嘘だと思うか」
あまりの言葉に、とっさには信じられなかった。驚愕が顔に出ただろうか。
「だったらおやじの秘蔵のファイルを探ってみろ。全部録画があるはずだ。いざというときには脅しの材料になるからな。なにしろ私はまだ未成年だし、相手は必ず複数だ。知っているか?複数なら確実に強制猥褻が成立するんだ」
開いた口がふさがらない―――などという呑気な気分ではなかったが、唖然としたことは確かだ。
容易には信じられない。
いや、嘘だと思いたい―――のか。
「信じなくていい。嘘だということにしておけ。そもそもおまえにこんな話をする気はなかった。どうやら暑さにやられたらしい」
そう言うとルーファウスは瞳を閉じて横を向いた。
掛ける言葉を失って、ツォンはただその硬い横顔を見つめる。

セクハラまがいの軽口で、幾度も誘いを掛けられた。
からかわれているのだと思っていた。
そこに幾ばくかの好意があることは気づいていたが、タークスは副社長が好意を寄せるのに適した相手ではない。だから気づかぬふりをしてきた。
しかしよもや言葉通りの誘いだったとは―――やはり信じ難い。
いつからだったろうか。
彼がそんなことを口にするようになったのは。
単に思春期の子供にありがちな言動などではなかったのか。
もし、愛情も好意のかけらもない性行為を強いられていたのだとしたら、ツォンに向けられたそれはルーファウスの心の悲鳴ではなかったか。

ブランケットの上に投げ出された手をそっと握る。小さな手のひらは、ひんやりと冷たかった。
そう、もともと体温の低い人だった。会議室での熱い手は、あの時もう熱があったのだと思いあたる。
身体の不調も、心の痛みも隠すことに長けた人だ。
いつも倒れるまで隠し続けるのだとしたら、それに気づき手を差し伸べることこそ、自分の役割ではないのか。護らなければならないのは、外敵からとは限らない。
いまだ、彼の言ったことが真実とは信じ難かったが、それはどちらでも良いことのような気がした。
その時感じた自分の胸の痛みこそが、真実だ。

「副社長…ルーファウス様」
ぴくりと手のひらが反応した。名を呼んだのはずいぶんと久しぶりな気がする。
「明日の予定は全てキャンセルいたしました。朝になって、もしご気分か悪くないようでしたら」
不自然なところで途切れた声に、ルーファウスが振り向く。スケジュールの話では無いのか。そう言いたげだ。
「どこかにしけ込みませんか、二人で」
続いたツォンの言葉に、ルーファウスの目が丸く見開かれた。


End


続き

ルーファウスは嘘を言っていると思う

ルーファウスの言うことは本当だと思う