「シャワーを使いたい」 長時間の移動で疲労困憊しているはずのルーファウスは、車を降りるとしっかりした口調でまずそう言った。 確かにずぶ濡れのままだったスーツは生乾き状態になっていささか異臭を放っているし、乾いた髪には泥や微かなゴミ屑がまとわりついたままだ。 その髪もしばらく見ないうちにかなり伸びてうなじを覆い、前髪は目を隠すほどになって、少し前の副社長時代を思い出させる。 「どうぞこちらへ」 ツォンはルーファウスを抱えるようにしてロッジの階段を上った。 ろくなものを食べていなかったのだろう。抱えた身体は軽く、支えた手に骨の感触が伝わる。その痛ましさに、ツォンは一瞬目を伏せた。 Fishing 「ひどい有り様だろう」 それを察したのか、用意してあった個室に入るとルーファウスは笑いを含んだ声で囁いた。 「半年も着たきりのスーツに、これだ」 軽くボトムを持ち上げると、そこにはおぞましい金属の枷があった。 ツォンは思わず息を呑む。 「鍵はみつからなかったらしくてな。鎖だけ切って、そのままだ」 「申し訳ありません、気づかずに…」 とっくに気づいてしかるべきだった。微かな金属音とバランスの悪い歩き方は、これのせいだったのだ。 瘠せた身体や発症した星痕に気を取られ、今現在の彼の状態に対する心配りがあまりにも欠けていた。そんな自分が腹立たしい。 「すぐ、外します」 「おまえならできるか」 「もちろん」 タークスは、どんな鍵でも解錠するための道具も常に携帯する。そういった道具を必要とする潜入や裏工作こそが、タークスの本領だ。荒っぽい戦闘はもともとソルジャーの管轄だった。 カチリと軽い音を立てて鍵は開いたが、枷自体が錆びかけていて外すにはかなり力が必要だった。 その錆びかけた枷の下から現れた膚に、ツォンは息を呑んだ。 ひどい痣と傷痕。まだ生々しく血の滲んでいる傷もある。何度も治りかけてはまた抉られた傷だ。 こんな重い枷を足首に付けたままでは、当然のことだった。 ほとんど目眩いに近い衝撃に、その足を支えたまま顔を上げることすらできないツォンにはおかまいなく、ルーファウスは軽やかな笑い声を立て、 「ようやく自由になったという気がするな。バスルームはそこか?」 とツォンの手を振り切って傷だらけの足がドアへ向かう。 「お手伝いいたします、ルーファウスさま」 慌てて立ち上がるツォンに、振り返りもせずルーファウスはひらひらと手を振った。 「いらん。風呂くらい一人で入れる。そう教えたのはおまえたちだったろう?」 それがタークス本部奥に幽閉されていた当時のことを言っているのだと、すぐに分かった。 そう、その時までルーファウスは、風呂に入るのも顔を洗うのも一人でするということはなかったのだ。 常に誰かしら傍に控え、タオルや着替えを用意し、髪をセットし爪を磨く。 それが彼にとってのマナーであり、使用人たちの仕事を邪魔するような態度を取ってはいけないと、幼い頃からずっとそう躾けられて育ったのだ。 だから、人手のない幽閉生活で初めてルーファウスは自分一人で自分の身の回りの世話をするということを学んだのだった。 ルーファウスの姿がドアの奥に消えると、間もなく水音が響いてきた。 ツォンはほっと溜息を漏らす。 彼の無事が確認でき、助け出せたことは本当に良かった。しかしそれもまさに危機一髪の状態で、あとほんの少し救出が遅れていれば命はなかったろう。 身体は雨水に長時間浸かって冷え切り、体力は限界に近かった。その洞窟を覗いて見たツォンは、よくぞこれで無事だったものだと心底感じ入った。 神羅社長――ルーファウスが、巷のウワサほど冷酷な人物でないことは、ツォンたちが一番よく知っている。それでも、この絶望的な状況の中で彼の為したことには頭が下がる。 彼は脚を引きずりながらたった一人で取り残された患者たちを洞窟の奥から運び出し、必ず助かるからと励まし続けたのだという――救出されたただ一人の患者からそう聞かされていた―― 彼のその行為にはなんの気負いも衒いもなく、できうることを持てる力で精一杯行っただけなのだろう。彼には、その患者たちからの感謝さえ無意味なものだったに違いない。何故なら彼がそうしたのは、その患者たちも彼にとっては『護るべき義務を課せられた民たち』であったからだ。それ以上でもそれ以下でもない。 それが彼の本当の強さだ―――と、そう思う。 だがそうしてやっと救出された彼は、おぞましい死病に取り憑かれていた。 治療法もなく、確実に死に至る病。 はたしてこれで本当に『助かった』と言えるのだろうか―― その時、項垂れ物思いに沈んでいたツォンの耳が、バスルームの異変を捉えた。 「社長…!、ルーファウスさま!? どうなさいました!」 水音に混じって、苦しげな呻きが聞こえる。だがドアノブに手をかけたツォンを鋭い声が遮った。 「おまえは入るな! レノかルードを呼べ…」 「何を」 「早くしろ…!」 有無を言わさぬ、激しい語調だった。命令に反すれば、ルーファウスは決してツォンを許さないだろう。それがどれだけ本気かくらいは分かる。 ツォンは弾かれたように部屋を飛び出した。 「社長〜…と!」 気の抜けた声と共にバスルームへ足を踏み入れたレノは、床に伏しているルーファウスに慌てて駆け寄った。 バスローブを半分だけはおり、身体も髪も濡れたまま、シャワーの湯も流れるままだった。 「社長! 大丈夫か、と」 抱き起こそうと手をかけると、ルーファウスは呻くように言った 「水を…止めろ」 「は? 水?」 「早く水を止めるんだ」 「お、おうよ、と」 水音が止むと、静寂の中にルーファウスの荒い呼吸音が響いた。苦しげに咳き込む口元から、黒い粘液が滴り落ちる。 「社長…」 「手を貸せ…」 そう言って身体を起こそうとしたまま、レノの腕の中でルーファウスは意識を失った。 瘠せた身体に残るいくつもの傷痕は、この半年が彼にとってどれほど過酷なものであったかを如実に物語っていた。彼自身がそれを語ることはないだろうが、何もかも後手後手に回って救出にこれほど時間がかかってしまったことは、タークスたちをいたたまれない気分にさせた。 疲労が限界に達していたのか発作のせいか、ルーファウスはレノとルードが身体を拭いて着替えさせベッドへ運んでも目を覚まさなかった。 ツォンは黙ってそれを見守っているだけで、レノたちは疑問に思いつつもルーファウスをベッドに寝かせると何も言わずに部屋を出て行った。 眠る彼の頬は血の気が無く透けるように白い。 半年も陽の当たらぬ洞窟の中に監禁されていたのだから、当然だ。いや、その前の4年半も―― むしろ彼が陽の下にいた時期の方が圧倒的に少ないではないか。 『神羅』はたしかに多くの人々の運命を狂わせてきた。 だが、その犠牲者の筆頭は、神羅の名を持つ彼自身だったのではないか。 彼は決してそんなことを認めようとはしないだろうが、誰よりも強くその名に拘束され、逃げ出すことを許されなかったのは事実だろう。 幼い頃から次期社長候補であり続けることを強いられ、父親の横死と共に手にしたその呪われた帝国は、僅か一月足らずで崩壊した。 そして――― ツォンは彼の右手にそっと触れる。 痛みは、あるのだろうか。 こうして触れることさえ、彼に苦痛を与えるのだろうか? 胸苦しさに顔を伏せ、そっと額をその手に押し当てた。 どのくらいそうしていたのか。 「ツォン…」 掠れた彼の声が、ツォンの意識を現実に引き戻した。 「喉が渇いた」 声は細く弱々しかったが、語調ははっきりしていた。 「はい、すぐにお持ちします」 ツォンは慌てたように立ち上がり、部屋を出て行く。その後ろ姿を見送るルーファウスの顔に、微かな笑みが浮かんだ。 ************ 十分な食事と休養を取ると、ルーファウスの顔色はみるみる良くなった。 病を抱えているとはいえ、彼は若く元来丈夫な質だった。星痕の発作を薬でコントロールしながら体力の回復に努め、3日も経つと仕事に復帰できるほどになった。 ルーファウスの指示を仰ぐようになると、仕事の効率は格段に良くなった。やはりタークスは実戦部隊であり、大局を見て計画を立てる指揮者がいるのといないのとでは大違いだった。それに、カンパニーの残存勢力、ことに神羅軍は、社長の命令でしか動こうとしなかったのだ。 そうやって忙しい日常が戻ってきた。 「まったく、リーブのタヌキめ! あいつのタヌキ度はおやじといい勝負だ」 ルーファウスの脱ぎ捨てた上衣を拾ってハンガーに掛けながら――さすがにここでは、一度袖を通した服は必ずランドリーへ廻すなどという贅沢は望めなかったので――ツォンはその軽口に笑った。 「あれでも部長――いや、リーブさんは貴方のことが心配なんですよ」 「おやじだってそう言ったろうさ。だがあいつの造った嫌がらせのシュータのせいでこのざまだ」 そう言って軽く脚を上げる。ルーファウスが僅かに脚を引きずっているのは、踵の骨折がきれいに完治しなかったせいだ。その骨折はシュータから飛び出したとき床に強打したせいである。 「あれは避難用シュータではなくまるでダストシュートだったからな。私はゴミ扱いだ。その辺がリーブはおやじにそっくりだ」 リーブが聞いたら情けなくて壁にアタマを打ち付けたくなるだろう、とツォンは思ったが、それはルーファウスには言わないでおく。 ルーファウスはボトムも脱ぎ捨て、――それもツォンが拾ってハンガーに掛ける――靴下を乱暴に剥いでそれもまた床に投げ捨てた。それはさすがにバスルームのランドリーボックスへ放り込み、ツォンが戻るとルーファウスはシャツ一枚のままソファに座って、テーブルに用意されていたワインをグラスに注いでいた。 以前なら絶対にしなかったようなだらしない仕草だったが、シャツから伸びた素足とはだけた前合わせから覗く肌が相まってひどく扇情的だ。 意図してのことではないのだろう。 ルーファウスにとって、そんな優雅さのかけらもない行動が欲望をそそるなど考えられないことだからだ。それもツォンには分かっていた。 分かっていて、それでも誘われているのかと淡い期待を押さえきれない。 二人が再会して以来、まだ身体の触れ合いは一度もなかった――― 「まあおまえも飲め」 手ずから差し出されたグラス。 「はい」 僅かに触れた指が温かい。 ああ、本当にこの人は生きて、ここにいる。 そんな想いが溢れ出て、ツォンを突き動かした。 「やめろ、ツォン!」 激しい声と共にルーファウスは、彼を抱きしめようと伸ばしたツォンの腕を思い掛けぬほどの力で遮った。グラスが床に落ちて砕け散り、ワインがまき散らされる。 「私に触れるな!」 振り払われた手のやり場に困ったように、ツォンは当惑した表情で固まった。 ルーファウスはそんなツォンを見つめるとふっと視線を下ろし、微かに笑う。 「誤解するなよ。別におまえに腹を立てているとか、おまえが嫌いになったとか、他に好きな女ができたとか、そういうことではない」 「そんな…ことは思っておりません」 「ならいい。悪いがそれを片付けてくれ」 軽く視線で壊れたグラスを示す。 「しかし、ルーファウスさま、なぜです? 私はただ…ただ、貴方を抱きしめたい。それだけです」 「それだけ? キスもなしか?」 笑って見上げる瞳は、だが少しも笑ってはいない。 「お身体に障らなければ…そのくらいは…」 「ふん。それだけですむとはとても考えられん」 「そんな…そんなことは」 揶揄うようなルーファウスの口調に途惑う。ツォンがルーファウスを求めるのは――性的な意味で――二人の関係を思えば当然といっていいはずだ。 なぜこんな風に拒まれねばならないのか。 「ではおまえは」 ルーファウスの口調は、一転して真摯になった。 「私が死んでも落胆しないと、悲しまないと誓えるか」 「何を…! 貴方が死ぬなどあり得ません!」 思いがけない言葉に、衝撃を受ける。本人の口から、そんな事を告げられるとは。考えるより先に、必死になって否定していた。 「そうではない。私の問題ではなく、おまえの気持ちの話だ」 「それは…どういう…」 「だから、私が死んでも決して後を追いたいなどと考えたりしないか、と訊いている」 「……」 ツォンは息を呑む。ルーファウスの瞳は真っ直ぐにツォンを見据え、その深い蒼は射るような厳しさを湛えている。 「もしほんの少しでもそんな気持ちがあるなら、私に触れることは許さない」 「けれど」 「ツォン。これが死に至る不治の病であることは、誰もが知っている」 ルーファウスは黒い染みの浮き出た右手の甲をツォンの前にかざす。 「しかし、伝染性はないと」 「きっかけはある」 軽く目を閉じ、ルーファウスは続けた。 「死を思うこと、その感情の揺れにこいつは付け込むのだ。そして、黒い水――」ツォンはきつく手を握りしめ、ただ黙ってルーファウスの言葉を聞いていた。 「意志を持つ黒い水だ。それが、病を引き起こす。水があればどこへでも…。患者の体液がそれを媒介しないとは言い切れない」 「だから…だから貴方は私を拒むと言われるのですか!?」 「そうだ。おまえにはやってもらわねばならないことが山ほどある。今おまえを失うわけにはいかない」 立ち尽くすツォンに対して、ルーファウスは言うべきことを言って清々したというような表情を見せる。 「しばらくの間だけだ、ツォン。こいつの治療法が見つかるまで。それまで我慢しろと言っている」 もし見つからなかったら? 見つかったとしても、間に合わなかったら? そんな迷いがツォンの脳裡をよぎる。 「ほらみろ、おまえは今だって私の言葉を信じていない」 むしろ楽しげに、ルーファウスは言い放つ。 「私は死にはしない。いや、これが私を殺すことはない、まだ、今はな」 ひらひらと右手を振る。 「これが私に取り憑いたのは、目的あってのことだ」 目的?―――そんな話は初めて聞く。 「だから私を殺しはしない。だが、おまえは違う。おまえが隙を見せれば、容赦なく取り殺すだろう」 確信に満ちた声だった。 ルーファウスは根拠のないことを信じたりする人物ではない。ツォンはそれ以上問うことをやめた。 ルーファウスがそう言うのなら、従うだけだ。 恋人という関係であっても、彼が神羅社長でありツォンがタークス主任である事実は無くならない。それはなによりも優先することなのだ。 「了解いたしました、社長」 ツォンの静かで力強い声が、快くルーファウスの耳を擽った。 ********** だが実際にことが動き始めるまでには、まだ1年以上の時を要したのだった。 タークスはジェノバの探索を命じられていたが、なかなか発見することができずにいた。 その間にルーファウスの病は次第に悪化し、寝付くことも多くなった。比較的体調の良いときも立ち歩くことが困難になり、車椅子を使うようになっていた。 酷い発作を起こし、意識を無くしてベッドに横たわるルーファウスを前に、厳しい目でそれを見据えていたツォンは、やがてゆっくりと部屋を出るとタークスたちを召集した。 モンスターが多く危険なため探索できずにいた北の大空洞最深部の調査を決行する―――とのツォンの言葉に、残る3人は無言で頷いた。 ********** 「ご苦労」 レノがロッジのドアを開けると、主人は正面でそれを出迎えた。 大空洞最深部でジェノバの一部とおぼしき物を手に入れたこと。 その時不審な人物が現れ、妨害してきたこと。 その3人組と戦うために主任とイリーナが残ったこと。 全て連絡済みだった。 そのことについて、ルーファウスはなにも問わず気遣うそぶりも見せなかった。 分かってはいたが――― レノは僅かに落胆する自分を抑えきれない。 自然と顔つきは険しく、言葉は乱暴になった。 「こんなもの、どうするんだぞ、と」 レノは車椅子のルーファウスに、セーフティボックスを投げる。 「これはエサだ」 厳重に封印されたボックスを楽しげに撫でて、ルーファウスは笑う。 「エサ?」 「セフィロスを釣り上げるためのな。それと、星の意志とやらも、だ」 「うわ、それって、釣るにはでかすぎるんじゃないかよ、と」 「釣れるさ」 「星が釣れる…というのは…」 さすがにルードも聞き返す。 「星痕は、ジェノバ因子とライフストリームのせめぎ合いが原因だ。一方だけどうにかしても、おそらくは治癒しない。しかも体内のジェノバ因子を全て取り除くことなど不可能だ。だからまず、こいつでセフィロスを釣り出す。そうすれば、なんらかの形で必ず星の意志の方も叩き出せる。そいつらを拮抗させることでしか、治療は見込めない」 ヒュー、と低くレノの口笛が響く。 「さっすが社長、アタマのデキが違うぞ、と」 ルードもまた、重々しく頷いた。 壮大な計画は、神羅社長とタークスにはいかにも相応しいものだと思えた。 さっきまでの苛ついた気持ちはどこへやら、レノはワクワクしてくる自分を感じていた。 ルーファウスはそんなレノを見上げて笑う。 「さて、忙しくなるぞ。ツォンたちが戻るまでは二人で動いて貰わねばならん」 「リョーカイだぞっと」 自分でもゲンキンだと思うくらい声が弾んだ。 『戻るまでは』と言い切った社長の言葉が、レノは嬉しかった。社長がそういうなら、それが信じられた。ルーファウスの言葉には力がある。 平気で嘘もつくが、嘘を本当にしてしまうだけの力もまた、彼は持っているのだ。 ツォンさん、早く帰ってこい。社長が待ってるぞ、と。 レノはルーファウスの指令を聞きながら、心で語りかける。 社長のいやったらしいビョーキが治ったら、思う存分ヤリまくるんだろ? 社長だってきっと、早くヤリたくてウズウズしてるぞ、と。 「レノ、聞いてるのか!」 「おう、もちろんだぞっと」 社長の叱責にも、顔が笑ってしまう。 「お楽しみはこれからだ、って話だろっと」 レノの軽口に、ルーファウスは笑みを浮かべた。 「そのとおりだ」 レノとルードは思わず見とれる。 タークスの信奉する神羅社長の、酷薄で妖艶な笑みだった。 そして事態は急転し、セフィロスの思念体との戦闘を経て、長く人々を悩ませ続けた病は、ルーファウスの言葉通り終熄することとなったのだった。 END |