翼無き者達の行方−終わりの始まり−断章

*好きなもの嫌いなもの*
 

「好きなもの…?」

「ええ、ルーファウス様は、何がお好きですか?」
「好きなもの…」
 首をかしげて考え込んでいる子供はたいそう愛らしいが、質問の答えはなかなか返ってこない。

 子供が存外生真面目な性格であることは、ほんの数回会っただけでよくわかっていた。
 子供はまだ8才になったばかり。
 怖ろしく裕福な家に生まれた一人息子で、すでに母親は亡く父親に溺愛されているとくればどんな我がまま坊ちゃんかと誰もが思う。
 なにしろミッドガル郊外にある広大な神羅邸には、この子供の世話をするためだけに数十人の使用人がいるのだ。そしてその使用人達は、ひどく入れ替わりが激しいという。
 ならばてっきりその使用人達を振り回して暮らしているものと誰もが想像していたし当然男もその一人だったが、どうもそうではなかったらしい。
 実際のルーファウス神羅は、多少世間知らずではあってもむしろ律儀と言っていい性格の子供だった。
 その上、我が儘、という言葉から想像するのとはかけ離れて感情の起伏も乏しい。冷たく冴え冴えとした表情は、めったに動くことがない。
 独り歩きしている噂の中のお坊ちゃまと実在のルーファウスは、その美貌以外ほとんど重なるところがなかったのだ。

 軽い気持ちで問いかけたのに困らせてしまったかなと、いささか後悔し始めた頃ようやく帰ってきた言葉は男を絶句させた。

「アスパラガス…かな。うん、アスパラガスは、好きだな」

 それだけ言うのに、ゆうに五分は考え込んでいたぞ。
「アスパラガス、ですか」
「そうだ」
 いかにも正しい答えを見つけたと言わんばかりの力強い肯定に、脱力する。

 この子供は、決して愚鈍ではない。
 いや、それどころかたいそう聡明だと言っていいだろう。
 ごく幼少の頃から、金に飽かせて最高の教育を受けてきたのだ。同じ年頃のどんな少年よりも、知識豊富なはずだ。
 亡くなった彼の母は、ミッドガルの大学教授だったと聞く。彼の父は、母の容姿よりもその知性を愛していたのだとは、ある意味公式の見解である。
 その父母の血を確かに受け継ぎ、金の髪と蒼い瞳、高い知能に、これは天が気まぐれに与えた端麗な容貌を持って生まれた子供を、父親は確かに溺愛していた。
 少なくとも傍目にはそう見えていたし、それが当然と思えるだけのものは、子供に備わっていたのだ。

 だから子供が五分以上という長時間をかけてようやく導き出した結論は、男を脱力させるに充分の威力を持っていた。
 何か気の利いたことを言おうとしているのか、それとも説明するのに手間取るものなのか、などという予想を全て覆して、子供の答えはあまりにもシンプルな『もの』だった。
 僅かに意地悪な気分になって、男は重ねて訊ねる。

「では、お嫌いなものはなんですか? ああ、食べ物でなくても、なんでもいいのですよ」
 食べ物に限ると子供が考えたら、嫌いなものはないと返されそうだった。
 先手を打ってその返答を封じる。

「ええと…」
 再び考え込んだ子供は、今度は先よりもう少し早く返答を返してきた。

「蚊、だな。蚊って知ってるか? 刺されると痒いんだぞ」

 そりゃあ普通蚊ぐらい知っていますが――と心の声は口には出さない。

「庭の奥にな、池があって。そこへ行くといつもいっぱい蚊に刺された。瞼を刺されたときなんか、こんなになって、」
 と眼窩の前に手をやってみせる。
「メイドに怒られた。それに凄く痒かった。だから蚊は嫌いだ」

 それは好きだという人の方が、絶対に少数でしょうが。

「なるほど」
 無難に頷くだけに留めておく。

 何もかも手に入る環境、というのは案外こんなものなのかもしれない。
 いつでも望むものが与えられるのなら、何かに執着する必要はない。
 羨ましい話だ。

 ――この時まだツォンは、ルーファウス神羅の真実を全く見誤っていたのだった。

end