Way of Difference−爪キーボードを叩くたびにかちかちと硬質な音が響く。 ルーファウスはしばし手を止めて自分の指を見つめる。 「誰か――いないか?」 モニタからではなく、格子越しに――今ドアは開け放たれている。出来うる限り副社長との接触を断たないように、というのはヴェルドもと主任の言い残した言葉だった――声をかけられて、ツォンは書類から顔を上げた。 ヴェルドが失踪して、ツォンは主任代理という立場になった。 必然的にタークス本部に詰めることが多くなる。 他のメンバーは皆出払っており、今現在ここにいるのはツォンだけだ。 プレジデント暗殺未遂の咎で、ルーファウスをタークス本部の隠し部屋に幽閉してから2週間になる。 彼はほとんど手のかからない囚人だった。 日がなモニタの前で調べ物をしているか、送られてくるどうでもいいような仕事を片付けているか。 副社長は表向きいまだ長期出張中ということになっていたから、以前と同じようにただ承認すればいいだけの決裁が回されてくる。 いてもいなくても良い副社長。 それを演出するためだけに。 そのことに不平を洩らすこともない。 こんなにも物静かな人だったのかと、レノ達までびっくりしていた。 食事や掃除などの世話は、タークスが交替で行っていたが、そんな時もまるで誰もいないかのようにペースを崩すことはない。 幼い頃から、身の回りの世話を他人がすることに慣れているのだろう。その間合いの取り方は絶妙だった。 食事は『出張中の副社長』のために専用の料理人が調理したものが冷凍かレトルトで運ばれてくる。 だからそれを温めて出すだけだったが、忙しくて人手がないときは時間もまちまちになる。 だがそういったことにも、無関心かと思えるほどなにひとつ言おうとはしなかったのだ。 「なんでしょうか、副社長」 ツォンは席を立ち、格子戸に近づいた。 そのすぐ向こうにルーファウスの姿がある。 自分からここまで来て声をかけるなど、今まで一度もなかった。 何があったのだろう。 ルーファウスの表情からは、その内容は伺い知れない。 ツォンは少しだけ奇妙な期待が心に宿るのを感じる。 どんな用かは分からないが、彼が自分から何かを要求してきたのは初めてだ。 今ここには二人きり。 どんな要求にせよ、出来うる限り応えてあげたい。 ツォンは微笑んでルーファウスの返事を待った。 「爪が伸びた」 簡潔にそう言って、ルーファウスは格子の間から手を突き出す。 その手を見下ろして、ツォンはしばしフリーズした。 「爪が、伸びたんだ」 要求が伝わらなかったと思ったのか、ルーファウスはツォンを見上げてもう一度はっきりと言った。 「はい…」 ツォンはとりあえず頷く。 爪、ね。――爪か。 心の中の期待が音を立てて萎んでいくのが聞こえたような気がした。 何を期待していたのかは、自分でも分からなかったが。 「爪切りは備品の中にあったはずですが」 そう言うとルーファウスは微かに眉を寄せ、首をかしげて考え込んだ。 「爪切り…? 見あたらなかったが」 「そうですか。では調べてみましょう」 格子戸を開け、隠し部屋へとはいる。 細々とした日用品の入ったチェストを開けると、確かに爪切りはそこにあった。 「ありましたよ」 取り出してそれをルーファウスに渡す。 これで用は済んだ。 久しぶりに格子越しでない彼と向き合ったというのに、そんな時間は数分で過ぎてしまう。 だがそのまま部屋を出ようとしたツォンに、後から声がかかった。 「待て、ツォン。これはどうやって使う?」 「は?」 まぬけな声が出た――と思う。 「どう、とは?」 言いながら振り向き、爪切りを手に突っ立っているルーファウスに向き合う。 ごく普通の爪切りだ。 どう見ても―― 「使い方が分からないから訊いている」 今度は爪切りをツォンに向けて突きだした。 からかわれているのだろうか。 だがそれにしてはルーファウスの顔は至極真面目だ。 そんな類の冗談はあまりやらない人だ――だった、と思い返す。 冗談も嫌がらせも高飛車な態度も、必要があるからやっている――そういう人だったと。 現にこの2週間で、素のままのルーファウスは表情に乏しく冷ややかで生真面目な人物だと、タークス全員の意見も一致したところだった。 仕方なしにツォンが爪切りを受け取ると、ルーファウスはそのまま手をツォンの前に向ける。 何がしたいのか計りかねて困惑したが、それは表には出なかったようだ。 ルーファウスは、 「座った方が良いか?」 と、ますます見当違いのことを訊いてきたからだ。 「と、言いますと?」 「おまえがやってくれるのだろう? あのヤスリのようなものならば自分でも使えると思ったが、それは使えそうもない」 平然と言い放つルーファウスに、ツォンはようやく悟る。 この方は自分で爪を切ったことなど無いのだ。 いや、爪を切る、ということすら経験がないのだろう。 爪はいつも使用人が手入れしていたのだ。 おそらくは毎日、ヤスリを使って整え、磨いていた。 いつも美しく輝いていた爪を思い起こせば、当然のことだった。 曰く言いがたい気持ちが沸き上がって、ツォンは沈黙する。 神羅の家に生まれ育つということがどういう事なのか、初めて実感できた気がした。 「お座りになって下さい、ルーファウスさま」 「副社長と呼べといったろう」 「今日は誰もいませんし。副社長の爪を切って差し上げるというのはなんだか妙です」 「…」 確かに変だと、ルーファウス自身も思ったのだろう。再なる訂正はなかった。その代わり、 「早急にあのヤスリを用意してくれ」 との要望が出る。 「はい」 笑いをかみ殺してツォンはルーファウスの手を取る。 細い指の先に輝く桜色の爪。 その艶は根本の方が僅かに失われている。 もう磨く者もいないのだから、じきに全て失われるのだろう。 ツォンはもの悲しい気持ちにとらわれる。 その輝きと共に、一つの時代が確実に失われていくような気がして―― ――そしてその予感は、4年の後に現実の物となる。 end |