その日、ツォンはエッジ周辺の調査に出ていた。 どんよりと曇った空からは、今にも雨が落ちてきそうだ。 ミッドガルの廃墟に立ち入ると、腐臭が鼻をついた。 弔う者もないまま放置された死者だろう。 エッジの路頭で死んだ身寄りの無い死者は、廃墟の目に着かない場所に投げ込まれることが少なくない。荼毘に付すにもかなりの金がかかる。燃料となるものが無いからだ。 星痕での死者の数は増え続けており、エネルギー事情は改善していない。 珍しくもない光景だった。 だが、無性に胸がざわついた。 それを、予感と呼ぶべきだったのだろうか。 ツォンは予定を切り上げ、ロッジへとって返した。 ドアを開けた途端、慌ただしい空気に気づいた。 だがオフィスには誰もいない。 真っ直ぐ社長の私室へ向かう。 すぐにドアから飛び出してきたイリーナと鉢合わせした。 「っ、しゅ、にんっっ!」 悲痛な声も無視して踏み込むと、部屋の中は惨状といっていい有り様だった。 部屋は、白を好むルーファウスに合わせてリネン類やフロアラグなどが白系で統一されている。 そのベッドの上が、まるでタールでもまき散らしたように黒く汚れている。しかもブランケットもシーツもぐしゃぐしゃで、そこにルーファウスの姿はなかった。 「社長!」 駆け寄った先は床のラグの上。 そのラグもあちこちに黒い染みができ、苦しさに掻きむしったのか、くっきりと黒く印された指の跡さえ見て取れた。常備されている薬の瓶が転がり、薬は全て流れ出している。発作が激しすぎて飲むことができなかったのだろう。 当のルーファウスは汚れた服で蹲り、意識があるのか無いのかも分からない。 抱え上げると、呻き、ツォンの腕から逃れようとするように身を捩った。そして身体を折り、口元を押さえるように手をやった。 指の間からどす黒い粘液が溢れ出し、ラグに滴る。 その量にツォンは慄然とした。 だが、呆けている場合ではない。 ルーファウスの身体を、吐いたものが喉に詰らないよう抱え直す。まだ溢れ出る粘液を拭っていると、イリーナが戻ってきた。 「主任、薬です!」 瓶を受け取りつつ、せめて注射できる薬品だったらと思わずにはいられない。この状態では、薬を飲むのは難しいだろう。 だが現時点で、効果のある薬品はこれしか見つかっていないのだ。 咄嗟の判断でツォンはルーファウスの口を少しだけ開かせ、自分の唇を近づけた。彼の口中に残った粘液を吸い出して、吐き出す。幾度か繰り返した後、今度は薬を口移しでほんの少しずつ流し込んだ。 ルーファウスの喉がこくりと鳴り、なんとか飲み下したのだと分かる。 僅かな量の薬をようやく飲み終えた頃には、ルーファウスの身体からは力が抜け、荒く繰り返されていた呼吸も落ち着いた。 ツォンはその身体を抱き上げ、立ち上がる。 「悪いが部屋の後始末を頼む。それから医師の手配を」 呆然と突っ立っているイリーナに声を掛けると、バスルームへ向かって歩き出した。 「は、はいっ」 イリーナは弾かれたように姿勢を正してバスルームのドアを開けるべく駆け寄った。 汚れた衣服を丁寧に脱がせ、力のない身体をゆっくりとバスタブに沈める。 バスタブには体温よりやや高い温度の湯が張られている。 このクリフリゾートは天然の温泉が湧き、湯には不自由しない。星痕の発作で汚れた身体をルーファウスがいつでも洗い流せるように、常に適温に保たれた湯が用意されているのだ。 黒い粘液で汚れた顔や髪をそっと洗い流しながら、声を掛けた。 「社長…、ルーファウス様」 正直応えがあるとは思っていなかったが、ルーファウスは薄く目を開いて 「…ツォン」 と名を呼んだ。 意識がなかったわけでも錯乱していたわけでもなく、ただ苦痛に耐えるだけで精一杯だったのだろうと思うと、胸が痛んだ。 「水…」 続けられた言葉に、「はい」と答える。 あれだけの体液を失ったのだ。身体は脱水に近い状態だろう。何をおいても水分の補給が必要だった。 バスルームには温泉と共に清水が引かれている。それをグラスに汲み、力なくバスタブに身体を預けているルーファウスに渡そうとして、とても無理だとすぐに思う。 「失礼します」 グラスの水を口に含み、口移しで飲ませる。 抵抗があるかとも思ったが、ルーファウスは黙ってそれを受け入れた。 ゆっくりと時間をかけ、グラスに半分ほどの水を飲み終えると、ルーファウスは深く息をついた。 「意外に…」 掠れた声だったが、言葉ははっきりしていた。 「不味くはないな」 微かに笑いを含んだ声が、ツォンは無性に嬉しかった。 その夜、眠るルーファウスの傍らで点滴の繋がれた手をそっと握りながら、ツォンは血の気のない顔を見つめていた。 常に命の危険と隣り合わせの生活をしてきた。 自分も、この方も。 タークスの任務は過酷なものだったが、ルーファウスもまた、幼い頃から暗殺やテロの危険に曝されてきたのだ。 そしてここまで生き延びてきた。 ふたりとも。 だからだろうか――― 今まで現実として捉えられなかったのは。 彼の抱える病は、治療法もなく確実に死に至るものだということを。 ルーファウスは、そんな事は少しも気にかけていないようだった。いや、実際気にかけていなかったのだろう。 それはきっとこれからも変わらない。 今日のことでショックを受けたのはツォンたちだけで(イリーナなどオフィスで泣いていた)、この人は具合さえ良くなれば以前と変わらず、仕事漬けの日々に戻る気だろう。 タークス本部奥に幽閉されていたときも、眠ることも食べることもほとんど関心がないような生活だった。 タークスたちは出入りが激しい上に大ザッパな連中が多く、ツォンが居ないときなど、一日食事が差し入れられないなどということもままあったのだ。それでも彼が不平をいったことは一度もなかった。 贅を尽くして育てられたはずなのに、彼はそういったことにおよそ無頓着だった。自分の体調にも――― だからきっと、同じことが繰り返される。 そして、次の時にも彼の命が無事である保証はどこにもない。 人は誰しも必ず死ぬ。 それが遠い未来であるか、明日であるかは分からない。 分からないならばいい――― 良かったのだ―――とツォンは初めて思い知った。 今の彼には、限られた近い未来の死か、明日の死か、そのどちらかしかない。 彼の為したこと、彼の志は残され、受け継がれていくだろう。 だが、今ここにある彼自身、彼の身体は、失われてしまうのだ。 ミッドガルの廃墟にうち捨てられていた死者の姿が、彼に重なる。 「ルーファウス…さま…」 嗚咽がこぼれないよう、ツォンは歯を食いしばった。 いかないでください。どこにも。 貴方のいない世界で生きることなど、耐えられない。 貴方の部下である私も、貴方を愛している私も――― 翌朝目覚めたルーファウスは、しばらくぼんやりと見慣れたロッジの天井を見上げていた。 どうやらまだ生きているらしい――― 星痕の発作が激痛を伴うものだということはわかっていたが、最初から薬で痛みをコントロールできたルーファウスは、なんとか我慢できる程度の発作しか経験がなかったのだ。今までは。 昨日は朝から微熱と鈍痛があって、ベッドで仕事をしていた。 つい熱中して薬を飲む時間がずれ込んだせいだったのだろうか。思い出して瓶を手に取ったときはもう遅かった。 身体中が痛み、喉の奥から粘液が溢れてきて息もできない。レストルームへいこうとしてベッドから落ちた後は、動くこともできなかった。 とんできたイリーナはただおろおろとし、「大丈夫ですか」と繰り返していたが、大丈夫なはずがない。 このまま死ぬのか、と思った。 そう―――思っただけだ。なんの感慨もなく。 何か思いついたらしく部屋を出て行ったイリーナと入れ違いに、ツォンが来た。 エッジへ調査に出したはずの男がなぜこの時間にここにいるのか、という疑問がちらと頭を掠めたが、すぐどうでも良くなった。 ツォンの腕は力強く、抱え上げられると少しだけ息が楽になった。 口移しで薬を飲まされたことに驚く余裕もなく、それで激痛が治まっていくことにただほっとした。 バスルームで身体を洗われ、また口移しで水を飲んだ。 水は意外に冷たく、ひりついた喉に心地よかった。 そこまでは記憶にあるが、後のことは覚えていない。疲れ切って寝入ってしまったのか。 そんな記憶を思い返していると、私室のドアが静かに開いた。 「お目覚めですか。おはようございます、社長」 入ってきたツォンを見て、ルーファウスは眼をしばたたいた。 いったい何事が起きたのか? 驚天動地とはこの事だ―――と胸の中で思う。 なんとなれば、部屋に入ってきたツォンはルーファウスをみてにっこりと笑ったのだ。 にっこり!? これほどに『にっこり』が似合わない男がいるだろうか。 いつも慇懃無礼、無表情がトレードマークだった。 ここ最近はその上に薄暗い陰を纏い付かせて、鬱陶しいくらいだったのだ。 それが――― どういう経緯でこうなったのか、ルーファウスにはさっぱり分からない。 あまりに驚いたので、 「だいぶ顔色も良くなりましたね。もう少しで点滴が終わりますから、何か召し上がりますか?」 とにこやかに問いかけられても、咄嗟に返事ができなかったくらいだ。 「何が…」 と問いかけようとして、それもどうかと思い直す。 にこやかであることに対して『どうかしたのか』と問うのは常識から考えて妙である。 「何か?」 と問い返されて、ルーファウスは口籠る。 「いや…そうだな、何か温かいものを。だがその前に」 「そうですね」 用件を言う前に頷かれ、呆気にとられるルーファウスの前にツォンがいそいそとベッドの下から取りだしたものは溲瓶である。 「…おまえ…」 「どうぞ」 と言いながらブランケットをめくろうとするのを、慌てて遮る。 「やめろ、馬鹿者」 だが遮ったつもりの腕は僅かに動いただけで、ルーファウスはほとんどいうことをきかない身体に愕然とする。 「ご無理なさらず」 至ってまじめな表情で言うツォンに、 「せめてレストルームへ連れて行け」 と顔を顰めて命令した。 ベッド上の攻防になんとか勝利し抱き上げられて運ばれたレストルームでは、手伝うと言い張るツォンをどうにか追い出して用を足した。 思わずこぼれた溜息は、生理的な理由ではもちろん無い。 あれはこんなに強引な男だったろうか――― しかもその後も、イリーナに運ばせた朝食をルーファウスが少しずつ口に運ぶ(これも手伝うというのをやっとの事で止めさせた)のを、傍らに座って楽しげに眺めていると来ては驚きを通り越して薄気味悪くさえある。 いくら考えを巡らせてもツォンのこの豹変の原因に思い当たらず、ルーファウスは当惑するばかりだった。 そして数日が過ぎた。 ルーファウスの当惑はまた、タークスたちの当惑でもあった。レノなどは陰で、 「ツォンさんとうとう壊れたんだぞ、と」 などとこぼしていたくらいである。ただイリーナだけは、 「明るい主任も素適です!」 と言ってはばからなかったが。 ツォンはまた、 「お身体の調子が戻るまでは、私が御世話します」 と主張してルーファウスの傍を離れようとしなかった。とはいえ、四六時中監視される生活には慣れているルーファウスのこと、いまいち気の利かない他の三人に比べると、ツォンの介助は過不足無く満足のいくものだった事は確かだ。 その快適さに慣れてしまうと、この男を遠ざけていたのはバカバカしいような気がしてきた。 夜である。 日中はオフィスで仕事をするまでに回復したルーファウスだったが、早めに就寝しろとうるさいツォンに追い立てられ、一日の報告をベッドの上で聞いていた。 もともと睡眠時間も短いほうで、体力も回復してきた今では眠気は訪れそうもない。ツォンが出ていったならノートを起動してデータの整理をしよう、などと考えつつ最後の方は適当に聞き流していると、突然ツォンの顔が目の前に来た。 「わ!」 身体を退こうにも、クッションに背を預けている状態では無理である。 「なんだ、いきなり」 不覚にも声を上げてしまった気恥ずかしさもあって、ことさらに素っ気なくルーファウスはツォンを見返す。 「お身体の具合もよろしいようですから」 ツォンが乗り上げたベッドのマットが僅かに沈むが、ルーファウスのためにタークスたちが調達してきたキングサイズのベッドは、二人分の体重を受けても軋みもしない。 「今一度私にチャンスを下さいますか」 「チャンス? なんの話だ」 ルーファウスにしてみれば、一度身体を重ねたきりその話題を避けていたのはツォンの方である。何が気に入らなかったのか知らないが失礼なヤツだと思っていただけで、チャンスなどと言われても首をかしげるばかりだ。 「貴方が…欲しい」 いつの間にか手を取られ、甲にキスされた。 「おまえ…」 ルーファウスの声には呆れた響きがある。 ツォンはくじけそうになる自分を励ましつつ、 「いけませんか」 と更に問うた。 「いけないもなにも、やる気がなかったのはおまえの方だろう。やってみたらたいして良くなかったからじゃないのか」 あからさまな反論に、愕然とするツォンだ。 「そんな、そんな事はございません!」 ルーファウスの眉間に皺が寄った。 「わからんヤツだな、ならなぜ今までなにもなかったようなフリをしていた?」 二人の認識と感情の落差を目の当たりにして、ツォンは言葉もない。 言いたいことは山ほどあったが、どれも口に出せば言い訳になりそうだった。 「申し訳ありません」 言い慣れた言葉が口をついた。 「はあ?」 ますます呆れるルーファウスの背を、ツォンはきつく抱きしめた。 「っ!」 突然の全力の抱擁に息がつまる。 抵抗する間もなく、ガウンと夜着を剥がされた。 「おまえ、いきなり…」 身体を這い回り、愛撫するツォンの手のせいで荒くなる息を押さえつつ言いさした言葉は、ツォンに遮られる。 「貴方が好きです。ずっと、好きだった。貴方を私のものにしたい。不遜なことは承知の上です。それでも…ほかの誰にも渡したくない」 真摯な声と瞳が今度こそ正面からルーファウスにぶつけられた。 「………」 見開かれていた蒼い瞳が、ふ、と笑みを形作る。 「…おまえも脱げ、馬鹿者」 根本まで収められたものがゆっくりと揺すられると、下腹部からじわりと慣れぬ感覚が湧いてルーファウスは呻いた。ツォンの手で与えられる刺激と相まって、一気に達しそうになる。 だが、ツォンはその手をゆるめ、それを許さなかった。 「…ツォンっ」 思わず声が上がる。 「気持ちいいですか? ルーファウスさま…」 ツォンはかがみ込んでルーファウスの耳元に囁いた。 「なにをば…!」 罵ろうとした言葉が途切れたのは、ツォンがより深く奥をえぐったからだ。 「っ、はっ…このっ」 「もっと声を…聞かせてください」 そんな事を言われたら、よけいに口を閉ざしたくなるというものだ。むっとした表情で黙り込んだルーファウスに、ツォンは 「貴方が好きです…貴方のすべてが。貴方は美しい。この髪も瞳も声も…」 と歯の浮くようなセリフを並べてみせた。 ゆるゆると身体を出入りするものが与える、快感なのか苦痛なのかよくわからない感覚に耐えるだけで精一杯のルーファウスは、ツォンのそんな余裕が癪に障る。それでも本音で囁かれる愛の言葉は悪い気分ではなかった。 「この身体も…素晴らしい。貴方とこうできるなんて、夢のようです」 ツォンは前回とはうって変わって饒舌だった。失敗の経験はちゃんと生かされているらしい、と思うと妙に微笑ましい。 だが、今現在ルーファウスにはそんな事をのんびり思うほど余裕があるわけではない。繋がったまま脚から腰にかけて愛撫されると、勝手に身体が跳ねた。 「あっ…は、あっ」 噤んでいた口から、声がこぼれる。 なんだかそれももう、どうでも良くなってきた。 「…ツォンっ」 ツォンも耐えきれなくなったのか、動きが激しくなる。 「悦い…貴方の中は…とても…っ」 身体の内と外から与えられる刺戟に翻弄されてルーファウスは喘ぎ、その自分の声にさえ煽られて絶頂へ駆け上がる。 仰けぞる白い喉、打ち振られる金の髪。 凄絶なほどに美しく官能的だ、とツォンは頭の隅で思う。だが頭のほとんどはただ情欲と快感に支配されていて、昇りつめるルーファウスの姿はツォンにも同じものをもたらした。 快感の余韻の中でルーファウスはツォンの呻きを聞き、自分の中のそれが大きく脈打つのを感じた。 倒れ込むようにして覆い被さってくるツォンの身体。肩を滑り落ちた髪が、ルーファウスの上に降りかかる。 達した後の男をこんなふうにして自分が受け止めている事は奇妙な違和感を感じさせたが、それに勝る充足感があった。 ツォンの頭を抱き寄せ、髪を撫でる。 「ルーファウス…さま…」 呻くような声が、肩先から聞こえた。 また何か『問題』でもあったのかと顔を見ようとしたが、しっかりと肩に伏せられたその表情は見ようもない。 「ツォン…?」 仕方なく声をかけてみるも、応えはなかった。 代わりに、肩を濡れた感触が滑り落ちていくことに気づいた。 「泣くほど悦かったか」 笑いを含んだ声で問うと、 「はい…」 と小さく返事が返った。 きっと自分の本音は分かってしまったのだろう、とツォンは思う。 本来勘のいい人だ。 なぜあの発作の後、自分が態度を変えたのか。 『誰にも渡したくない』その相手が、決してまだ見ぬ神羅夫人ではないこと――― だからこの人は冗談めかして『悦かったか』などと言ってくれたのだ。 その心遣いが哀しくて、込み上げるものを止められない。 一番辛いのは、もちろん自分ではない。それも分かっているのに。 「馬鹿だな、おまえは」 ルーファウスの手が、宥めるようにツォンの背を叩く。 「…はい」 ずっとこの人に恋していた。 大切にしたいと、傷つくことのないよう、なにものからも護りたいと思っていた。 そう思う一方で、この人を抱くことを、欲望のままに犯し啼かせることを夢見てきた。 相反する思いを抱えて苦しいと―――そう思っていた。だが、そのどちらも自分の立ち位置は同じだったのだと、こうなって初めて気づく。 それが現実になってみれば、自分は泣きながらこの人に慰めてもらっているではないか。遥か年下のこの人に――― そうだ―――いつも護られていたのは自分たちだった。 ヴェルド主任の件を思い返すまでもなく、常に先を読み、手を尽して自分たちを護ってくれたのはこの人だった。 その命に従うことと、その手に護られることは同じことの裏表だった。 そんな事にも気づかなかった自分の愚かさに笑えてくる。 「ツォン」 ようやく涙も治まったと見たのか、ルーファウスが呼びかけてきた。 「はい」 「二度続けては無理だぞ」 「…はい」 「なんだその微妙な間は。不満か」 「いえ、ではお身体を洗いましょう」 そう言いながらツォンはまだ収めたままだったものを引き抜く。 「…っ」 ルーファウスが息を呑み、びくんと彼のものが反応する。 思わずそれに手を伸ばし―――たツォンを、彼の手が遮った。 「だから二度は無理だと言ってるだろうが!」 「つい…」 「何がついだ、まったく…」 ぶつぶつと呟く彼を、抱き上げる。 「うわっ」 「バスへお連れします」 「下ろせ、こら!」 「いえ。たいへんお疲れのようですから」 「何を言って…」 ようやく何を当てこすられているのか気づき、ルーファウスは沈黙する。 ―――まあいいか。 下品な反撃ができるくらいに浮上したなら、その辺は大目にみてやろう。 ここ数日で、この男の知らなかった顔をいろいろ見た。 にこにこ顔とか、泣き顔――実際には顔は見ていないが――とか。 慇懃無礼の無表情が本質かと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。 それが分かっただけでも、大収穫だ。 「ツォン」 抱かれたままルーファウスはツォンの髪を引いた。 「はい」 足を止めて、ツォンが見下ろす。 ルーファウスの腕が伸びてツォンの首を抱いた。そのまま顔が近づき、唇が重ねられる。 軽く触れるだけの口付けはすぐ離れて行き、蒼い瞳がじっとツォンを見上げる。 ツォンはしばし呆然とそれに見とれ、それから軽く頭を振った。 「本当に…貴方にはかなわない」 「あたりまえだ」 ルーファウスは即答だ。 「私は社長で、おまえはただの、タークス主任だ」 満足そうなその笑みに、ツォンは微笑み返す。 「はい」 「これが報酬なら…」 考え込むふうを見せて、ルーファウスがツォンを見上げる。 「一生ただ働きでも良いくらいだな」 「いえ、それは困ります」 「何が不足だ」 「たまには貴方にプレゼントの一つもさしあげたい」 「…ふん」 至ってまじめな表情のツォンを見つめ、ルーファウスは軽く目を閉じた。 「欲しいものがあれば言う」 「はい」 「そうしたらおまえは」 開かれた瞳がひた、とツォンに据えられる。先刻までの軽口の応酬とはうって変わって、真剣な色を佩びた声音だった。 「何があっても私のもとへそれを持ってこい」 「はい」ツォンもまた、迷いのない言葉を返す。「この命に代えましても」 「よく言った。それでこそ私のタークス主任だ」 いまいちどルーファウスの腕がツォンの首に廻される。そして今度こそ深い口付けが交わされた。 「おはよーございますっ」 相変わらず無用に威勢のいいイリーナの挨拶がロッジに響き渡る。 「だぞっ、と」 とわけの分からない挨拶で続くレノの後から現れたルードは無言で頭を下げた。 こちらもまた無言で頷き返したツォンがデスクにいるのは、すでに日常となっている。寝ずの番とは言わないまでも、社長に夜通し張り付いていることは皆了解していた。 だが、今日はその社長の姿がない。 重役出勤などという言葉はルーファウスの辞書にはない。 常に誰よりも早くから遅くまでデスクにいるのが彼だ。タークス本部に幽閉されていた当時から現在まで、それは変わることはない。イリーナは社長は余程仕事が好きなのだろうと思っている。レノは仕事しかやることがないのだと考えているし、ルードは、実は社長ほど謹厳実直な人はいないのだと思っている。 ともあれ、社長がデスクにいないのは何事か問題があったからに違いない。以前ならともかく、今現在ツォンが社長を一人で外に出したりするはずもないからだ。 「社長…は?」 おそるおそる、といった声でイリーナが切り出した。 「少しお疲れのようだから、まだ寝んで頂いている。心配ない」 モニタを見つめたままのツォンから、坦々と返事が返った。 「そ、そうですか…なら良かった」 あからさまにほっとした様子でイリーナは微笑んだが、レノは首を傾げる。 昨日は確か早上がりだった。 タイトな任務が片付いたところで、だから自分たちは久しぶりにその脚でエッジに繰り出して飲み歩いた。 社長はそんな場所の安酒なぞ飲まないし、遊び歩けるような身体でもない。普段の生活にこそさほど支障はないものの、常に痛みや微熱が続き、いつ大きな発作が来るかも分からない病人だ。 当然ツォンはロッジに残って社長の世話だった。 数日前の社長の発作は、その場に居合わせたイリーナとツォンには相当ショックな出来事だったらしい。が、レノとルードは翌日任務から戻って事の顛末をイリーナから聞いただけだったので、さほどの危機感はなかった。その頃には社長の容態もすっかり落ち着いていて、さすがにベッドを出ることは叶わなかったものの、あれをしろこれを持ってこいと人使いの荒さはいつにも増して健在で、とても瀕死の重病人には見えなかったからだ。 だからむしろ、その日からのツォンの変わりように『ぶったまげた』事の方が大きい。 自分たちに向ける顔は特に変化はなかったものの、社長に対する態度は180度一変した。 ニコニコと笑顔を振りまきながらかいがいしく世話を焼く様子は、びっくりを通り越して薄気味悪くさえあった。それは社長も同じであったらしく、それまであからさまにツォンを遠ざけていた事は綺麗さっぱり忘れ去られた様子だった。たとえそう命じたとしても、ツォンは従いそうもないと思ったのかもしれないが。 しかし社長はすぐそんなツォンにも慣れたらしく、ごく普通に接するようになった。口うるさくなったことには多少閉口しているようだったが、自分自身でも先日の発作の件は失策だったと思うのか、健康管理に関しては譲歩することにしたらしい。 というわけで、拭い切れぬ違和感を抱えたまま日を過ごしていたのはレノだけだった。 そしてこの、『社長のお疲れ』だ。 これはいつかと同じ展開じゃないのか、とレノは思う。 いつか――は他でもない、社長がキルミスターの洞窟から救出された翌日、二人の様子がおかしくなったその日だ。 よくよく思い出してみれば、あの前日も自分たちは早上がりだった。 まるで追い払われるようにしてロッジから出されたことに、いささか不満を覚えたのだ。 社長の元気な(とは言い切れなかったが)姿を見られて嬉しいのは自分たちも同じだった。 神羅社長は多くの人に恨まれたり嫌われたりしているが、そのほとんどは逆恨みというヤツだとレノは思う。憎まれるべきは『社長』という肩書きであって、ルーファウス自身はあの状況にあって良くやってきたと言っていいと思うし、実際に会えば魅力的な人物だ。 なんたって見た目が良いし。 ツォンさんほどマジじゃないにせよ、タークスの男連中は『社長(当時は副社長)とだったら一発やってもいいよな』などとよく言い合ったものだった。当の社長は、そんな事はさっぱり気づかなかったみたいだが。 それはさて置き、あの日はちょっとしたパーティくらいあってもいいのにと、がっかりした記憶がある。 それでも、ツォンさんと二人きりにしてやるかと親心(?)が湧いたことも事実だった。 で、その結果があれだった。 親切心が徒になったか、とも思ったが、どうにもよくわからない状況だった。でもって、今日のこれだ。 なんともすっきりしない気分に、一人で悶々とするレノである。 そもそもレノは『人生は楽しんだ者勝ち』という信念の持ち主であるからして、ほとんど悩んだり落ち込んだりはしない。 だが、こと『恋バナ』については別である。 他人の恋路に首を突っ込んだり、探って廻ったり、あれやこれや考え巡らしてちょっかい出してひっかき廻したりするのはレノの最大の娯楽の一つだ。 そのためなのだから、悩むのもまた楽しみのうちなのである。 だがいつまでも黙って悩んでいるレノではない。ツォンがオフィスを出た隙を狙って、すぐに行動を起こした。 その辺がツォンとは大違いなのだった。 「しゃっちょー…、と」 そーーっと私室のドアを開けると、ルーファウスは丁度目覚めたところだったのか、白いブランケットの山がもそりと動いて、ぼんやりした目がレノに向けられた。 『うっわーーー』 と歓声だか悲鳴だかわからない声が、レノの内心で上がる。 いつも毅然とした様子のルーファウスしか見たことがない目には、刺激が強すぎだ。 枕に散った色味の薄い金髪も、涙の膜が張ったような薄青の瞳も、半分ブランケットに隠れている淡い桜色の唇も、まるで砂糖菓子でできているみたいだ。 「…レノ?」 なんでおまえがここにいる? と続きそうな怪訝な口調もいつもの迫力に欠け、気怠るそうだった。 ひとこと言ったきり口を噤んでいるのも、社長らしくない。なんとなく、口をきくのも億劫そうだ。 「社長? …具合悪いのか?」 ベッドに近づいて額に手をやろうとしたら、ふっと避けられた。 「少しだるいだけだ。かまうな」 閉ざされた瞳に拒否されたような気がして、ちくりと胸が痛んだことにレノは驚いた。 いやいやいやいや、これは寝起きの社長が色っぽすぎるからで、触れなくって残念だったなーって、それだけだから! 別に、好きとか恋とかLOVEとか、全然そんなんじゃないから! と心で言い訳する。 言い訳しつつも、ツォンさんの気持ちがちょっと分かるなあ、なんて思ってしまうあたり、もうダメダメである。 そしてついでに、二人の間に昨夜何があったかも分かってしまった。 ツォンの態度を見たときから、もしかしてとは思っていたのだが、社長にあって確信に至ったというわけだ。 ツォンさん良かったな――― と思う一方で、 ちくしょう、上手いことやりやがって! とも思ってしまう。 やっぱり社長が女役だよな…なんて下世話な想像まで湧いてしまい、慌てて打ち消す。今本人を目の前にして考えるような事じゃなかった。 ヤバイヤバイ。危うく勃つトコだったぜvv 「んじゃ、ツォンさん戻ったか見てくるわ」 くるりとルーファウスに背を向けて、レノはひらひらと手を振る。 照れ隠しもあってかふざけた態度だったが、反対を向いて目を閉じていたルーファウスは気づかなかった。 ただ、『なんでツォンなんだ』という疑問が湧く。 湧いたと同時に、レノは二人の関係に気づいているのだと思い当たって、思わず顔を顰めた。 背後でぱたりとドアの閉まる音が聞こえ、口止めを念押ししようにももう遅かった。 まあ―――いいか ルーファウスは簡単にその問題を切り上げた。 べつにたいしたことじゃなし。それより気がかりなのはジュノンの軍だ――― ルーファウスにとっては、その程度の認識なのだった。 だが、もちろん彼以外の者たちにとっては、一大スクープだった。 その日のうちにウワサはタークスの情報網を駆け巡り、山ほど尾鰭を付けてツォンのもとへももたらされ、またまた頭を抱えさせることとなったのだった。 おしまい |