アイシクルに着いたのはもう日も暮れる頃だった。

 雪原は青い闇に沈もうとしていたけれど、副社長はヘリを降りると真っ直ぐに歩き出した。
 どこまで行くつもりかと、はらはらしながらオレは追っかけた。
 それでも止めるつもりはなかった。
 歩きたいなら、好きなだけ歩かせてあげたかった。
 だけど吹き付ける風は時折雪混じりになって、前を歩く副社長の姿も霞みそうだ。
 遭難は勘弁して欲しいな、と思い始めた頃、副社長はオレを振り返って薄く笑った。
「こんなに雪を見たのは、初めてだ。…寒いな」
 そうなのか。
 そういえば確かこの人は、ずっとミッドガルを出たことがなかったと聞いたことがあった。
 お屋敷と本社以外の場所に行くことも、ほとんどなかったのだと。
 遊ぶことも友達を持つことも許されず、カンパニーを継ぐためにだけ育てられた。
 結構歳が近いオレ達と接するときでも、副社長と部下、という態度を崩すことはない。
 プライベートで遊びに行くとか、女の子と付き合うとか、そういうことも全然無いんだろう。
 世界一の金持ちの家に生まれて何不自由なく育ったはずの人が、こんなまるで囚人みたいな生活をしてるなんて、誰が想像するだろうか。
 
 冷たい風に曝されて、夕闇に色を失った髪が吹き散らされている。
 副社長の細い身体は雪と同じ色の服に包まれていて、そのまま景色の中に融けていきそうだった。
 オレは堪らなくなって駆け寄り、その身体を抱きしめた。
 



 アイシクルロッジは、オレ達にはなじみの場所だ。
 このロッジの奥にはモンスターを狩るのに最適な場所があり、訓練のために新人タークスはよくここに通う。
 だからロッジのおやじももちろん顔見知りだったが、幸いおやじは副社長の顔は知らないようだった。
 だからオレは副社長を視察に来た社員だと言って誤魔化し、部屋を取った。
 

「副社長、風呂の用意が出来ましたよ」
 窓際の椅子に座って暗い窓の外を見つめている副社長に声をかけるが、振り返る様子もない。
「副社長…」
 側へ寄って肩に手を置くと、ようやく振り向いた。
 髪も服も濡れたままで、顔色はほとんど服と同じだ。
「あったまらないと、風邪ひいちゃいますよ」
「ああ…」
 立ち上がって歩き始めたけれど、足下が覚束ない。
 さっきまではしっかり歩いていたのに。
 表情には表れない感情の起伏がそのまま行動に出ているようで、不安になる。
 オレの前ではもうそれを隠そうという気はないらしく虚ろな目をして、目の前のものがちゃんと見えているのかも疑問だ。
 昨日から眠っていないし、食べてもいない。
 もう体力は限界なんだろう。
「とにかくあったまって。それから、メシ食いましょう」

 オレは副社長の身体を支えて風呂へ運んだ。
 服を脱がせてもバスタブで髪を洗ってあげても、副社長はまるで人形みたいに黙ってされるままになってた。
 見ようによっては、昨日よりも状態は悪い。
 ニブルヘイムに連れて行ったのはやっぱり失敗だったんじゃないかと、オレは後悔し始めていた。
 
 ロッジは高級ホテルじゃないからルームサービスなんてしゃれたものはない。
 食事は食堂で取るのが基本だけど、副社長の様子じゃとても食堂には行けそうもなかったから、オレは食堂からスープとパンとミルクだけもらって部屋へ運んだ。
 副社長はそれにもなかなか口を付けようとしなかった。
 説得し続けてオレの方が泣きたい気分になった頃、ようやくスープを半分だけ飲んでくれた。
 オレが喜ぶと、副社長は不思議なものを見るようにオレの顔をじっと見つめた。
 なんかもう、無防備すぎるって、この人。
 まだ子供なんだって思うけど、そう思って見ても綺麗に手入れされた髪や指先とかすごく優雅な仕草とか、明らかにオレ達とは違う世界の住人なんだと思わせるそういうもののすべてがひどく色っぽい。
 無意識なんだか意識的なんだかよくわからない辺りがまた謎だ。
 瞬きもせず見つめてくる透き通った蒼い目を見ながら、オレは副社長の頬に手を添えた。
 副社長の手が上がって、オレの手に重なる。
 幾らか赤味を取り戻した唇が軽く開いて、ほんの少しだけ、顎が上がった。
 こ、これはやっぱり、誘われてるんだろうか。
 てことは応えなきゃイケナイだろうか、つか、我慢できねぇッ!
 
 副社長の唇は思ったよりずっと柔らかで、そのキスはオレが知ってる誰よりも抜群に上手かった。

 ちょっとショーーックvv

 自慢じゃないが、スラム育ちでちっとは名の知れた不良わるだったオレは、当然女だってそれなり以上に知ってると(もちろんこの歳にしては、だ)思ってた。
 それも、海千山千のおねーちゃんたちに手取り足取り、ガキの頃からご指導いただいたんだから、テクにはまあ自信があったわけだ。
 だけど、副社長のキスはそういうのとはまた全然違って、でもとろけそうに良かった。
 その見た目通りに綺麗で上品で優雅で、そのくせもの凄く厭らしくて。
 いったいどこでこんなキスを覚えたんだか。
 なんて余裕をかましてるようだけど、実際それどころじゃなかった。
 ここまで来て我慢できるほど、オレは聖人君子じゃない。

「ふ、副社長…」

 だけど、なんて言ったらいいかおろおろするばかりだ。
 いきなりヤッてもいいですかっていうのもあんまりだし、だからって好きですとか愛してますとか、言えるわけもない。
 本当は言いたいと思った。
 言えるものなら。
 だけど、副社長は大切な人を亡くしたばかりだ。
 それに、オレなんかが好きとか簡単に言えるような相手じゃない。
 本当ならこんなふうに触れることなんかできない雲の上の人だ。
 それにオレはこの人にとってただの部下だ。
 そんなこと、十分わかっている。
 だから、今だけ。
 今だけこの人の慰めになれればいい。
 少しでも、眠らせてあげられればいい。
 そう、思う。

 キスを受け入れてくれたんだから、たぶん最後まで許してくれるだろうと思った。
 それもおそらく、オレのことが好きだからとかじゃなくて、人肌が恋しいっていうか、一人じゃないって思いたいからだろう。
 そんなこともわかっていながら、つけいるみたいにしてるオレってどうなんだ!?と思う反面、やっぱりこの人には今、受け止めてあげることが必要なんじゃないかとも思うんだ。

 オレの気持ちも、欲望と哀れみと愛しさの間でぐらぐらしていた。

 結局そのままベッドになだれこんじまった。
 副社長はバスローブ姿だったから、脱がせるのは簡単だ。
 昨日から何度も見た裸だけど、そういう気分で眺めるともの凄くドキドキした。
 副社長は細い腕をオレの首に巻き付けてきて、キスをねだった。
 キスしながら、身体の線をくまなく辿る。
 男とヤッたことはなかったけど、副社長と寝ることに抵抗はなかった。
 ただ、上手くできるかどうかだけ、ちょっと心配だったけど。



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