「迷惑をかけてすまない」

 眠っているとばかり思っていたルーファウスが、ぽつりと呟くように言った。
 その場には、部屋の隅に控えていたツォン以外の人間はいなかったので、その言葉は明らかにツォンに当てたものだった。
「何をおっしゃいます」
「仕事の邪魔をしているな…」
「今は貴方の警護が仕事です。お身体が良くなるまでお側にいるよう言いつかっています」
「ヴェルドから?」
「いえ。お父上からです」
 深夜に降る雪のごとく秘やかなかなため息が聞こえたようだ。
「そうか」
 それきりルーファウスは口を噤んだ。
 瞳を閉じて、枕に身体を預けている。
 まだ、顔も身体も繃帯だらけだ。その上、何本ものチューブが繋がれている。
 ツォンはその痛々しい姿から目をそらす。
 
 病室の白い壁にさらさらと沈黙が降り積もる。
 
「驚いたろう?」
 答えようがない。
「こんなことで社員を煩わせて」
 答えを期待されていないことは、わかっていた。
「こんな、家庭内の不始末にまでかり出されて…ご苦労なことだ」
「それが仕事ですから。ルーファウス様が、女と別れたいと言われればそのお手伝いもいたしますよ」
「なんだそれは。そんな女なんかいないぞ」
「たとえばの話です」
 ルーファウスの気配が和らぐ。
 表情は見えないが、笑ってくれたような気がしてツォンはほっとする。
「なあ」
「なんでしょう」
「親父には、女はいないのか?」
 あまりに予想外の質問で、一瞬ツォンは返事に詰った。
「…存じません。プレジデントはルーファウス様の母上をとても愛していらっしゃったと…」
「公式発表は、だろう」
「それでも。特定の方はおられないと思いますが」
「やっぱりダメか…」
「だめ、とは?」
「どこかに隠し子でもいるのなら、そいつに副社長を任せて私はとんずらだ」
「はあ?」
 とんずらという言葉の響きと、私という固い一人称が、とんでもなく合わない。
 いつからこの方は『ぼく』と言わなくなったのだったか。
「そうしたら一緒に来ないか、ツォン。二人で新しい会社を作ろう」
「お誘いはありがたく存じますが」
「なんの会社がいいかな。貿易か、旅行代理店なんてどうだ? 人材派遣会社なんかもいいか」
「他にお子様がおられようとおられまいと、神羅の次期社長はルーファウス様です」
 きっぱりとしたツォンの言いように、ルーファウスは思わずツォンの顔を見つめた。

 本当はルーファウスにもわかっている。
 この世界のどこへ逃げても、どこまででも追われるだろう事は。
 あの父が、自分を手放すはずがない。
 そのくらいならばきっと、自分を殺してでも手元に留めようとするだろう。
 そして、神羅の裏を知る彼もまた、ここを出て行くことなど叶わないに違いない。

「次期社長か。――副社長ではなく」
「はい。必ず、社長になっていただかなくては」
 ルーファウスは視線を落とす。
 包帯の巻かれた右手。
 指の骨が折れる、嫌な音が脳裏に甦る。
 
「そうしたら――」

 ゆっくりと、声を絞り出すようにルーファウスは言葉を綴る。
「おまえも、私の部下になる――のだな」
「はい」
 迷いはない。
 私が本当にお仕えしたいのは貴方だ。プレジデントではなく。
 この日初めてツォンははっきりとそれを意識した。

「では」

 決然と顔を上げて、ルーファウスは告げる。
「おまえは私を裏切らないと誓えるか」
「ルーファウス様。その質問には意味がありません」
「そうか」
 唇の端を吊り上げて、ルーファウスが笑う。
 それは、ツォンが初めて見る表情だった。
「ならばいい。――ツォン」
 カームの明るい日射しを背に、ルーファウスの髪が金色に縁取られる。
「私は必ずおまえの期待に応えよう」
 すいこまれそうに蒼い瞳が、真っ直ぐにツォンを射抜いた。
「そして」
 繃帯だらけの右手を差し出す。
 ツォンはそっとその手を取る。
 
「我らの自由をあがなおう」


 ルーファウスの言葉の意味が本当にツォンにわかるのは、神羅崩壊後のことになる。

END