「御気分はいかがですか」
「上々とは言えないが、吐き気も目眩いも治まった」
「ならばもうお休みになった方がよろしいですね」
 軽く寝具を整えてツォンがその場を離れようとすると、声がかかった。
「少し…」
 どこか縋るようなまなざしが、ツォンを見つめている。
「話をしていかないか」
 しばしためらった後、返事を返す。
「はい」
「ここへ座れ」
 ルーファウスはベッドの縁を叩いて促す。
 そんな仕草がひどく子供っぽく見えて、思わず笑みが浮かんだ。
「なんだ」
 目敏くそれを見とがめてルーファウスが首をかしげる。
 洗い晒したままの髪が柔らかく揺れて、ますます可愛らしい。
 さっきまで空恐ろしいように思えていたのに、この現実の表情の前にそんな気分は吹き飛んだ。
「いえ。そうしていると本当にお可愛らしいと」
「バカ。なんでそういうことを言うかな」
 僅かにむっとしたような顔で、ツォンを見上げる。
 口調も年相応の砕けたものになっていて、それもまた愛らしい。
「おまえに可愛いなどと思われても、なんの役にもたたん。無駄だ」
「無駄、ですか」
「そうだ。そういうものを使うのは別の場所だけでたくさんだ」
「使う…」
「いろいろあるだろう。部外秘のファイルを見たいときとか、食堂で列に割り込みたいときとか」
 前者はともかく、この方が食堂で列に並ぶ姿など思いつかない。しかも割り込む?
 さらっと例に出てきたからには、経験があるに違いない。しかしそんな必要性があるのだろうか。
「それに」
 ツォンの疑問を置き去りに、ルーファウスは言葉を続ける。
「今頃オヤジたちは、新規の融資契約を結んで乾杯でもしてるだろうさ」
 一瞬、食堂の列と乾杯が繋がらなかった。
「手みやげと言っていただろう? 私の顔にもそのくらいの価値はあるという事だ」
 坦々と続ける言葉に、先ほどの畏怖が甦る。
 ツォンの微かな気持ちの変化を敏感に察して、ルーファウスの視線が尖る。
「女ならともかく、私は男だぞ。顔くらい可愛くなければ、いくらあの連中が好色でも味見しようなどとは思わないさ。ああ、そんなことはどうでもいい。おまえには関係ないしな」
「私は…」
 どんな言葉をかけるつもりなのか、とルーファウスが構えるのがツォンにもわかった。
 同情も哀れみも受け付けない、と、その毅い視線が語っている。
「…私も貴方のお顔が好きですよ。ルーファウス様」
 ルーファウスの頬に血の気が差した。
「バカ。だからそういうことを言うなと言ってるだろうが」
 ツォンの思いは複雑だ。
 こういう言い様や仕草は大層愛らしいが、この方がただ愛すべき人格の持ち主などでないことは、もうわかってしまった。
 それでも、目の前にある綺麗な蒼い瞳や、あどけなさを残した表情には心が揺れる。
 ツォンはそっと手を伸ばし、ルーファウスの髪を撫でた。
 
 


 
「なぜオヤジがおまえを私の側に置くか、という話だったな」
 そういえばそうだったか。
 他のことに気を取られて、その話題は忘れていた。

「あいつは試しているんだ。面白い遊びを思いついたから」
 その遊びがどういうものなのか、ツォンには想像も付かない。ただ、何か忌まわしい事なのだろうと、ルーファウスの口調から察せられただけだ。

「今日私をあいつ等に抱かせたのだって、私がおまえと性交渉を持ったかどうかを知りたかったからだ」
 あけすけな言葉に、たじろぐ。十五の子供が言うことだろうか。
 それ以前に、自分がこの方と性的な関係になるなどということがあり得るのか。
「そんなことが何故必要なのか、わかるか?」
 もちろんツォンにはさっぱりわからない。
 それより、今まで考えてもみなかった、この方を性行為の対象として見るということ、自分とそういう関係になるということの方に気を取られる。
 一度思い当たってしまえば、それはひどく心を引かれるものだった。
 見上げてくる澄んだ蒼い瞳。癖のない金色の髪。人形のように整った顔立ち。そこに宿る強靱な意志。
 先ほど見たばかりの、華奢な裸身も甦る。傷つき血を流していたあの部分…

「その方が楽しいとわかっているからだ」

 肉欲的な妄想に落ち込んでいたツォンの意識が、引き戻される。
 内心の決まり悪さを隠し、ツォンは疑問を口にする。
「楽しい、とは?」
「私がおまえとセックスをして、そうだな、恋人と呼べるような関係になったら…」
 口にされた言葉は甘い響きを持っていたが、ルーファウスの口調は地を這うように暗い。

「あいつはおまえを殺すだろう」

 慄然とする。
 『殺す』と言われたことよりも、自分がいつの間にかこの父と子の血みどろのゲームに引きずり込まれていたことに。

「あいつは、私からおまえを取り上げる楽しみに舌なめずりしているはずだ。そのためには私がおまえに恋着している必要性がある」
 語られる言葉は理知的で、明らかに真相をついていた。
「私がおまえに好意を持っていることを、あいつは了解していた。必要以上に側に近づけておけば、いつか自分の望む結果が得られるだろう事も。おまえも言ったように、私は男に性的欲望を覚えさせるような容姿をしているらしいからな」
「私は、そんなつもりでは…!」
「いい。それは単なる事実だ。それに、おまえに求められれば私が拒まなかったろう事も、事実だ」
 目眩いがする。
 それは遠回しな告白なのだろうか。それにしてはあまりにも感情が伴わなすぎる。
 事実――。
 そんな仮定のことを事実として語られても、途惑うばかりだ。

「おまえはタークスだから。いつでも、無謀な任務を与えて消すことができる。いや、裏切りの汚名を着せて始末することだって簡単だ」
 ルーファウスの声に、ようやく感情がこもり始める。

「きっと。私の前で。おまえをなぶり殺しにして。私が泣き叫ぶのを。あいつの前に這いつくばって許しを請うのを。それを見たいがためにおまえを」
 激情に揺れる声。
「ルーファウス様、」
 俯いてきつくシーツを掴んでいる手をそっと握る。
 ゆっくりとルーファウスが顔を上げる。
「ウソだと思うか?」
「いいえ」
 ツォンはゆるゆると首を振る。

「大丈夫だ。私がそんなことはさせない」
 突然ルーファウスの腕が首に廻された。
 暖かい息が頬にかかる。
 その肩は小さく震えていて、泣いているのかと思うほど息が荒い。
「ルーファウス様」
 そっとその背を抱く。
 
「ツォン」
 ようやく震えが治まると、ルーファウスはツォンの肩に手を置き、身体を離して真っ直ぐにツォンを見つめた。

「あいつがおまえに手をかけようとしたら」
 浮かべられる極上の笑み。

「その前に私が、あいつの一番の楽しみを取り上げてやる」

 その笑みの向こうに、ツォンは無限の冥い闇を見たと思った。


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