ヒーリンの夜は静かだ。 かつて神羅カンパニーの保養施設として建てられたロッジの群れは、星痕症候群を患う人々に解放されていた。 治る見込みのない病を抱え、感染るという風評に仕事にもつけない患者たちにとって、住居と食事を保証してくれるこの場所は最後の拠り所だった。 それを提供してくれる篤志家が誰なのか、知る者はなかった。 まさかそれが死んだと思われている神羅カンパニーの社長であり、しかも彼自身その中で隠れるように暮らしているとは、思いもよらないだろう。 ルーファウスの住まうロッジは、ヒーリンの中でも奥まった場所にひっそりと建っていた。 こつん、と窓辺で小さな音がした。 ふと見やると、人影にしては小さすぎるそれが、窓の外をよぎる。 ルーファウスはゆっくりした動作でベッドを下り、窓へ向かった。 彼が窓を開けるのと、寝室のドアが細く開いて黒髪の男が顔を覗かせたのとは、ほとんど同時だった。 ルーファウスはちらりとドアに目線を送り、片手を軽く上げてツォンを制した。 ―――必要ない――― その意を汲んでツォンはゆっくりとドアを閉める。 反対に、開いた窓からはひらりと小さな影が舞い込んだ。 重さを感じさせない軽やかな動きだ。床に着地した足音も、軽い。 「どうした、今頃」 ルーファウスは微かに笑んでその小さな身体を見下ろす。 ふさふさとした毛並みをそよがせて、人形は首を下げた。 「遅うに、すんません」 「何か忘れ物か? それとも、もう一度私の顔を見ておきたかったか?」 意地の悪い笑みを浮かべて見下ろしてくる神羅の盟主―――実際にその名を名乗っていなかったにしても、彼がいまだその名にふさわしい地位にいることは事実だった―――を見上げてケット・シーはヒゲを萎れさせ、少しばかり困った顔をした。 「そんなんやありません」 「ほう。では、わざわざおまえを寄こした理由はなんだ?」 「…」 「おまえを見るのは久しぶりだな」 ルーファウスは言いながらゆっくりとベッドに腰を下ろした。 どこかぎこちなさを残した動きだったが、それでもその動作は優雅だった。怪我も病も、この人からその優雅さを奪うことはできなかったのだ。むしろ、病床にあったこの2年間がいっそうそれを洗練させたようにさえ見える。 不思議な人だ――― そう、リーブは思い、ケット・シーもそう感じる。 少しだけ、目線が近くなった。 するとルーファウスはケット・シーの身体に手を伸ばし、いきなり抱き上げた。 「わわっ」 腕を振り回して焦る人形を膝の上に載せ、顔を寄せる。 「しゃ、社長…っ」 こつん、と額が合わされた。 小さな顔を挟んだ両手は、優しくその毛並みを撫でる。 鼻の頭にキスを落とされて、ケット・シーは身体を硬直させ、尻尾を震わせた。 「な、なにしはりますねん」 ふふ、と秘やかな笑い声が耳を擽る。 「リーブ相手ならこんなことはしないが」 言いながらルーファウスはケット・シーの身体を胸に抱き込んだ。その頭に頬をよせ、後ろ頭を撫でる。 「リーブは融通の利かない男だが、おまえは可愛らしいな。見た目というのは不思議なものだ」 それをアンタが言うか、と、ケット・シーの中のリーブは思う。 見た目だけなら、ルーファウスこそ完璧だ。黒い痣に冒され窶れてはいても、金色の髪も蒼い瞳も白皙の美貌も、何も損われていない。 初めて会った時と同じ、人形のように整った容姿だ。 だが、彼が綺麗なだけの人形などでないことは、今は誰よりもよくわかっている。 目的のためならば手段を選ばない―――いや、敢えて悪辣なやり方を選択しているのではないかと疑いたくなるような人物だ。 「この見た目で誤魔化される者は多かろうな。分かっていてさえ、騙されたくなる」 「社長かて…」 「私? ―――ふふ」 この人は、自身の容姿が美しいことなど百も承知だ。いつだってそれを十分に利用してきたのだから。 社長就任に当たって、若すぎるという社内の声を封じたのは、彼の側に付いた取引先の面々だった。彼が自分の足場を固めるために活用したのが、第一にその容姿だったことは知っている。 「初めて会った日のことでも思いだしたか?」 まさに――― あの時私が思ったことに 「おまえが私の要請に応えてくれるなら、なんでもしてやるぞ」 そう言って笑った顔は、あの頃よりも屈託なく綺麗だった。明日をも知れぬ病を抱えた身であるはずなのに。 彼の胸に寄せたロボットの耳は、明らかな異音を聞き取る。 怪我の後遺症なのか、その身に巣食う病のせいなのかは分からない。 ただ――― この人は本当に、もうじきいなくなってしまうのだと、そのことが心に迫って胸が痛んだ。 ロボットに涙を流す機能がなかったのは幸いだった。ケット・シーは、しおしおとヒゲを萎らせただけだ。 「社長」 「何かな、リーブ部長」 「社長の提案をお受けします」 ケットの口調ではなく、私は言った。 限り無く不本意ではあるけれど、それが正論であり、私以外にその役を引き受ける者がいないことも確かだった。 「そうか」 淡々とした口調で返事を返した後、彼はロボットを抱きしめた。 「納得してもらえて嬉しいよ、リーブ。色仕掛けができなかったのは残念だが」 ケット・シーは身体を強ばらせ、同時にドアの向こうで咳払いが聞こえた。 彼はちらりとドアを見やって、おもむろに姿勢を正した。 「そうと決まれば、大いに働いてもらおう。ツォン、客人がお帰りだ。計画書と資料をお渡ししてお送りしろ」 「えっ、え、いや、送ってもらわんでも」 「おまえでは資料を持ちきれん」 いきなりの展開について行けない。 目を白黒しているケットの背を、今度は部屋に入ってきたツォンが押した。 「こちらへ、部長。ただ今車の用意をします」 「や、あの、今すぐにとはゆうてへん…」 「ありがとうございます。部長」 ヒーリンを出て荒れ地に入ると運転席のツォンが口を開いた。 「ツォンに礼を言われる筋合いはあれへん」 後部座席で、山のような書類とメモリに埋もれてケットは呟く。 「それでも」 笑みを含んだ声だった。 最近ではすっかり無表情が板に付いたこのタークス主任が、こんな物言いをするのは珍しいことだった。 「そんなんゆわれたかて、気乗りせんことは変わらん」 「それでも引き受けてくださった」 「しゃあないやん…」 忍び笑う声がした。 「まったく。あの方には誰も逆らえない」 その通りだ。 それを嫌と言うほど分かっているのは、この男の方だろう。 「調査の方は、進んどるんか」 タークスが、星痕症候群について調べていることは知っていた。そういった調査こそが、『総務部調査課』であった彼らの本領であることも。 「手がかりかもしれないことは、見つかっています」 「はあ〜。ややこし言い方すな」 「まだなんとも言えないということです」 秘密主義も、タークスの慣行だった。 「―――間に合うのか」 口調を変えた問いに、ツォンは一瞬押し黙った。 「そう、信じています」 だが言い切った声に迷いはない。 「そか。ならこっちはぼちぼちでええな」 私は軽口を返す。 「それは困ります。どのみち社長が表に立たれるわけにはいかないのですから」 「なんの因果で兵隊ごっこまでせなならんのや。それにジュノンの軍属が納得するんやろか」 「そのための準備はこちらがいたします」 タークスが、か。 まさに用意周到だ。 彼のやることには隙がない。 あの身体でそこまでの采配を振るうその能力には、脱帽するしかない。 もしかしたら、もう二度と顔を見ることもないのかもしれないと思うと、ちりちりと胸が痛んだ。 「明日」 その気分を察したかのように、ゆっくりとツォンが口を開く。 「北の大空洞の調査に向かいます」 そして、 翌日。 事態は急展開を迎えたのだった。 |