「悪いな。おまえたちに皺寄せが行って」
 ベッドの上でツォンは集まった三人の部下に言う。
「どうってことありません。主任は早くお身体を治すことだけ、考えてください」
「そうなんだぞ、と。あの状況で命があっただけめっけもんなんだぞ、と」

 確かにツォンが助かったのは奇跡に近かった。
 崩れゆく神殿から抜け出したときのことも、その後のこともほとんど記憶にない。
 ただあの時、ここで死ぬことは出来ないと思った。
 いつ、どこで死んでも任務ならば当然だと、ずっと心に決めていたはずだった。
 それなのに、あの場で死ぬことは自分が許せなかった。
 どうしても。
 そう思う気持ちが身体を動かした。
 どうしても、生きて戻らねばならないと、あの時は確かに分かっていたのだ。
 そんなにも明確だったはずの意志は、しかし何度目かに意識を取り戻した頃にはひどく曖昧になっていた。
 
 そしてようやく帰り着いたミッドガルでツォンが見たものは、天空に迫り来るメテオだった。

 状況は危機的だった。
 ジュノンがウェポンという怪物に襲われたのだという。
 キャノン砲と総攻撃によってようやく撃破したこの怪物は、偶然現れたものではなくメテオに呼応して出現したものらしいと推察されているという。
 それは、この後引き続いて同様の怪物が現れる危険性を示唆していた。

 そんな話をまるで世間話のような気軽さで語って、部下たちは戻っていった。
 彼らの仕事も、より激務になっているだろうことは想像に難くない。
 テロリストの監視の上に地域住民の避難計画まで、タークスの任務になって来る。
 前社長の時代も、通常任務から外れたミッションではタークスが兵士を率いて行動することは珍しくなかった。
 そんな時にただベッドを暖めているしかできない自分の不甲斐なさに、ツォンは臍を噛む。
 だが動けるようになるまでにはまだ時間がかかると医師には申し渡されていた。
 実際ようやく半身を起こすことが出来るようになった状態だ。
 こんな身体で現場へ出ても邪魔になるだけだということは、誰よりもよく自分が承知している。
 今ツォンに出来るのは、ただ1日でも早く傷を治すよう専念することだけだった。




「意外に元気そうじゃないか」
 一抱えもある花束をツォンのベッドに放り出して、ルーファウスは楽しげに笑いかけた。
「こんな夜中に…」
「夜中だろうがなんだろうが、私は来たいときに来るさ」
 この非常事態下でどこの花屋に作らせたのか、真紅の薔薇の花束は白いシーツの上で不釣り合いに鮮やかだった。
 花が貴重な品であるミッドガルで真夜中にこんな花束を作らせることも、それを持って時間外に病院を訪れることも、神羅社長にとってはなんでもないことだろう。
 この世界では今、彼の都合より優先されるものは何一つ無いのだから。
 花を見つめるツォンに気づいたのか、ルーファウスは肩を揺すって笑う。
「出入りの花屋に適当に見つくろって今すぐ持ってこいと言ったら、デートにでも行くと思ったらしい」
 窓に凭れながら、上空を見上げる。
 夜空に禍々しい赤をまき散らすメテオが、白い頬を照らし出す。
「せっかく戻ってきたのに、残念だったな。ここはそう長く持ちそうもない」
「何を…」
 ツォンは愕然とする。
「あれが墜ちてくれば、世界は終わりだ。少なくともこの街が崩壊を免れることはないだろう」
「それを食い止めるために皆努力してるのではないのですか」
「そうだな」
 うっとりと眼を細めて、ルーファウスは禍つ星を見つめる。
 それでツォンはようやく気づく。
 この部屋へ入って来たときからの、ルーファウスの上機嫌の理由を。
「貴方は…何もかも投げ出してしまうおつもりか」
 その強い語調に、ルーファウスはツォンに向けた目をしばたたく。
「誰がそんな事を言った?」
「…そうでないなら…何も申し上げることはありません」
「ちゃんと責任は果たすさ。神羅カンパニーの社長として」
 大げさに腕を拡げ、肩をすくめてみせる様はルーファウスが機嫌の良いときよく見せる仕草だった。
 ツォンの非難にも、彼の機嫌は損ねられることは無かったらしい。
 ルーファウスが、父親の造ったこの街を心の底で憎んでいるのではないかとは思っていた。
 彼を閉じ込めていた檻であるあの本社ビルも。
 比喩ではなく、まさに彼は4年半の間社屋に捕らわれた囚人だったのだ。
 だから彼の憎しみに根拠がないとは言わない。
 だが、カンパニーの中枢はこの街にあり、ミッドガルが失われればカンパニーは機能を停止するだろう。
 それは、魔晄エネルギーによって支えられる世界の崩壊を意味した。

「心配するな、ツォン。私はこの街を捨てはしない」
 間近に顔を寄せて、ルーファウスが囁く。
 その声に込められた確信に、ツォンの心がざわめいた。
「おまえが戻ってきてくれて嬉しいよ」
 ルーファウスの手が、ツォンの喉元を押さえつける。
 その手に力が込められ、息苦しさが増す。
 ベッドに伏したままとはいえ、ルーファウスの細い腕など逆手にとって押さえ返すのは容易い。
 だがツォンがそうすることはなかった。
 黙ったままルーファウスを見つめるツォンに、楽しげに笑った顔が近づき、唇が重ねられる。
 その人形ビスクドールめいた造作から、冷たいのではないかと思われた唇はあたりまえのことながら温かく、予想以上に柔らかだった。
 そしてこれは予想通りの、稚拙な口付け。
 ルーファウスの意図が読めないことに僅かないらだちはあったが、行為そのものに不快感はなかった。

 否――
 自分は心のどこかでこれを待ちこがれていたのではないか――という気さえした。
 それほどに、この不安定な上司はツォンの心を捉えて放さない。
 一時は彼の所行を許せないと思い、憎悪さえした。
 彼が神羅の跡取りでなかったなら、ためらいなく撃ち殺していただろう。
 だが彼は神羅カンパニーにとって欠くべからざる人物であり、現にプレジデント亡き後カンパニーを支えてきたのは彼の働きだった。
 寝食を忘れて仕事に打ち込む姿はいっそ清々しく、彼はカンパニーの社長として十分に相応しいのかもしれないと、ツォンにさえ思わしめた。
 彼のしたことをすべて許せるわけではない。
 だがそれを言うならカンパニーも、タークスも、その手は決してきれいではない。
 多くの人の流した血の上に、今の自分がある。
 ルーファウスを非難する資格は、自分にはない。
 幾千の嘆きと怨嗟を睥睨する孤高の玉座にある彼にとっては、自分の恨みもその一つに過ぎないのだ。

 頭を抱え込み口付けを深くすると、ルーファウスは一瞬抵抗するそぶりを見せたがすぐにまた応えてきた。
 そのつたない口付けに、ツォンは彼が思春期のほとんどをあの窓のない部屋で過ごしたことを思い出す。
 触れ合うことはもちろん、不必要な会話を交わすことさえタークス達に禁じたのは、他ならぬツォン自身だ。
 あの部屋を訪れる者は、タークスだけだった。
 彼の監禁を命じた父親は一度も顔を見せることはなく、いつ解放されるかも分からぬまま彼はそこでただ時をやり過ごしていたのだ。
 世界から隔絶されていたあの4年間が彼の心にどんな影を落としているのか――ツォンはこの日初めてそれを思った。

 湿った水音と共に、唇が離れてゆく。
 僅かに上気した頬と欲情に潤んだ瞳。額に落ちかかる髪が燦めく。
 ぎこちない口付けとは対照的にその外見は完璧な妖艶さを演出している。
 つい今し方までツォンの口付けに翻弄されていた口元が、酷薄な笑みを形作った。

「だが、おまえにとってはどちらが幸福だったろうな? あのまま死んでいたのと」

 そう言い置いて、ルーファウスは病室を出て行った。

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