「ツォン」
 
 その短い、しかし果てし無く遠いと思われた距離を、ツォンは二歩で跨ぎ越す。
 抱きしめた身体は冷え切って、重ねた唇は微かに震えていた。

 ゴゥ、と足元で風が唸る。
 幾万の幽鬼が上げる怨みの声だ。

「ツォン、聞こえるか」
「はい」

「ツォン」
「はい」

「私を抱け」

 ――なぜ
 ――そんなことを
 ――今
 ――ここで
 
 混乱する思考は、再びの口付けに奪われる。
 噛みつくように合わされる唇。
 力のない腕がツォンの背に廻され、ルーファウスの欲情が脚に当たる。

「ここで。この場所で。わたしに、わたしの身体に誓え。ツォン」

 ――なにを
 ――これ以上の何を

 思考の切れ端は言葉にはならない。
 代わりにツォンは折れそうなほど強くその身体を抱きしめた。





「またハンストですか」
 夕食を持って入ってきたツォンは、そこに放置されたままの朝食と昼食をちらりと見てうんざりしたように声をかけた。
 かけられた当人は押し黙ったままモニタに向かっている。
 速い速度でスクロールされていく文字列は、それに向かうルーファウスの表情と同じようにツォンを拒否している。
 ツォンは問答無用とばかりにいきなり電源を落とした。
「何をする!」
 気色ばんで怒りを向けるのを、無表情に見下ろして食事のトレーを差し出す。
「食事をしなさい」
「五月蠅い。いちいちおまえにそんなことを指図される謂れはない。私は食べたいときに食べる。そこへ置いていけ」
「貴方にここで餓死されたら我々の立場が悪くなるだろうという企みですか?」
「バカバカしい。なぜ私がそんなことをしなければならない。第一、私が死のうが生きようが、気にかけている者が一人でもいると思うのか?」
「少なくともプレジデントは気にかけていらっしゃるでしょう」
「ふん。おやじが気にしているのは世間体だけだ」
「我々には貴方をお預かりした責任がある。とにかく、食事はしていただかなくては」
「私にかまうな」
 椅子から立ち上がり、背を向けたルーファウスの腕を掴む。
「無理矢理にでも食べさせて欲しいのですか」
「触るな! 出ていけ!」
 振り向き様振り回された腕は、トレーに当たってそれをはじき飛ばした。
 当然料理と食器は床にまき散らされ、整然と整えられていた部屋は一瞬にして惨澹たる有り様となり果てた。
 部屋だけでなくルーファウス自身もまだ湯気を上げているスープを頭から被り、その熱さに顔を顰めることになった。
 ツォンは無言のままいきなりルーファウスの襟首をまるでネコの子でも持つように掴み、引き摺って部屋を横断した。
 もちろんルーファウスは抵抗を試みたが、ひねり上げられた手首から走る激痛にすぐそれは諦めた。
 実力行使に出たタークス主任に対し、そんな抵抗は無意味だ。
 ツォンはバスルームにルーファウスを押し込むと、シャワーを全開にして水を浴びせかけた。
 容赦なく浴びせられる水は口にも鼻にも流れ込み、ルーファウスは咽せて咳き込んだ。
 息ができない。
 冷たさと苦しさから逃れようとバスルームの床を這いずった。
 人間はコップ一杯の水で溺れることが出来ると、何かで読んだ――そんなことを思い出す。
 コップ一杯の水で、この男は自分を殺すことが出来るのだ。
 そんな仕事も、いつか完璧にやってのけるだろう。
 父からその指令が下りさえすれば。

 神羅の狗――

 水が止まっている、と気づいたのはツォンに顎を掴まれて上向かされたときだった。
「火傷の跡などが残っては困るのですよ」
 冷ややかな声が耳を打つ。
「貴方には、たとえ棺の中でも完璧に美しくあっていただかなくては」
 眼を閉じたまま、ルーファウスはその声を聞く。
「貴方はご自分の責任というものを理解しておられない。それを分かっていただくのも、我々の務めです」

 この男は、顔色ひとつ変えずに自分を殺すのだろう。
 傷跡も残さず――

「おわかりか? 貴方はカンパニーの跡継ぎとして完璧でなくてはならないのです。まず食事をなさい。自己の管理は当然の責務です。それとも、『年若い息子を亡くした悲劇のプレジデントを演出するための棺の中の美しい遺体』になりたいと?」

 それは今自分に期待されている役割としておそらく最高のものだ、とルーファウスは認識する。
 そしてこの男は、自分を手にかけることを望んでいる。
 あの昏い色の瞳の奥で――

「放せ」
 目を閉じたまま、ルーファウスは命じる。

 欲しい――
 身の内に沸き上がる欲望に、ルーファウスはひどく高揚した。
 この狗が――
 あの瞳が――

「着替える。食事を運ばせておけ」
 顎にかけられた手が離れてゆく。

「承知いたしました。副社長」

 ドアの閉まる音を背に、ルーファウスはゆっくりと立ち上がる。

 いつか必ずおまえを手に入れる――
 
 目を開き、ツォンの去ったドアの向こうを見据える。
 そこにある男の残像を。

 望んで得られたものなど、今迄何一つ無かったのだ。
 だから今度は失敗しない。
 きっとあの狗を私の前に跪かせる。

 ――必ず。
 手に入れるのだ。





 ルーファウスは自ら上衣とシャツの前を開く。
 その下はまだ繃帯に覆われて、ほとんど肌が見えない。
 僅かにのぞいた薄い色の乳首に、ツォンは目眩いにも似た劣情を覚える。
 こんな状態の人に対して、自分は何をしようとしているのか。
 分かっていて、止めることが出来ない。
「ツォン」
 その僅かな逡巡すら許さないというかのように、ルーファウスは嗤う。
「私が欲しいと言え。この身体が欲しいと。わたしをおまえに与えよと」

 ルーファウスの足元に跪き、見下ろす顔を仰ぐ。
 伸ばした腕をシャツの中に挿し入れ、その下の硬質なラインに掌をあてがう。
 幾重にも着込んだ服に覆われ、薄く華奢だとしか見えていなかった身体がもう十分に大人の男のものであることに驚く。
 ベルトを引き抜き、指先を腰骨に沿って滑らせる。
 辿り着いたその先にあるものはすでに堅く勃ち上がっていて、そんな男の身体が自分を駆り立てることにツォンは狼狽しそれ以上に欲情する。
 
 熱に撓んだ強化ガラスの窓にルーファウスの背を押しつけ、抱え上げた脚の間にツォンは己を打ち込んだ。
 ルーファウスの身体が仰け反り、その喉から細く高い悲鳴が放たれた。
 その声はしんと静まった瓦礫の都市に谺し、涯のない暗闇への供物のごとく吸い込まれてゆく。
 二人の共有するものは快感ではなく、二人の求めるものは快楽ではない。
 ただお互いを圧倒するほどの欲望だけが、この場を支配している。
 幽鬼達の生への渇望のごとく。
 悦楽よりは苦痛に、髪を乱し喘ぐ人の額に光る汗をツォンは舌で舐めとる。
 薄く開かれた瞳がツォンを見下ろして笑う。
 
 この感情に付ける名を、ツォンは知らない。
 愛しさなのか――
 憎しみなのか――
 それともこれこそが後悔というものなのか――

 互いの間にある痛みが二人を頂点へ導く。
 ツォンはより深く繋がることを求め、ルーファウスはツォンの肩に爪を立ててそれを許した。
 
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