宿に戻ったイリーナの顔を見るなり、レノの表情はあからさまに落胆した。 「社長は?」 と訊ねた声には、ただ顎をしゃくって奥の部屋を指しただけだ。 この、いい加減でちゃらんぽらんで不作法な『センパイ』が、なぜか主任の不在に一番ダメージを受けているのだと、イリーナにも分かっていた。 「お食事は?」 眠っているのならいいが、目覚めているのなら食事をしてもらわなくてはならない。それでなくとも食の細かった彼は、このところますます食べることに対する意欲を失くしているようだった。 「お伺いしてくるといいんだぞ、と」 投げやりな言葉は、先ほどの叱責が余程こたえているからだろう。レノは自分に非があるとはかけらも思っていない。社長が出張ってきて、せっかく説得しようとツォンを捜し出した努力を無にしたと思っているのだ。 その気持ちも分からなくはない。イリーナはそっと奥のベッドルームへ続くドアを開けて、様子を窺った。 「何だ?」 はっきりとした声が問う。 「…お目覚めでしたら…お食事をお持ちします」 灯りを落とした部屋の中で、ベッドに半身を起こして闇を見据えていたルーファウスに驚きながら、イリーナはやっとそう口にした。 「灯りを」 ルーファウスは振り向き、そう命じる。 「はい」 光の満ちた部屋の中で見た社長は、顔色こそ悪かったけれどその様子には何か決然としたものが見て取れた。 「お食事は…」 訝しむイリーナに、 「貰おう」 と思いがけぬ返答が返ってきた。 「は、はい、ただいま、すぐに」 ルーファウスが自ら食事を望むなど、ついぞ無かったことだ。喫驚して焦燥った返事になってしまった。 「迷惑を…かけたな、おまえたちにも」 引っ込もうとしたところへまた、思いもよらぬ言葉がかけられてイリーナは仰天した。 迷惑? 迷惑と言ったのか? この人が? 天地がひっくり返っても聞けそうもない言葉だった。 目を白黒させて固まったイリーナに、ルーファウスの笑顔が向けられた。 「戻ったら忙しくなる。覚悟しておけ」 「何を話してるんだぞ、と」 「センパイ、やめてください。みっともないです」 ドアに耳を押しつけて張り付くレノをイリーナはたしなめる。 「それにそんな事したって、何も聞こえっこないです」 そんな事はレノだって分かっている。それでも気になるものは気になるのだ。 ヒーリンに戻るとすぐ、ルーファウスはヴェルドを呼び出した。今二人は、このドアの向こうで話し合っている。 「新人教育、ですか」 「そうだ。今の人数ではそろそろ限界なのでな。だが、ここの三人には新人のスカウトも教育も荷が重すぎる。取敢えず即戦力になりそうな所まで、仕上げた者を送ってほしい」 「はあ…」 ヴェルドは煮え切らない返事をした。 「なんだ。隠遁生活で惚けたか」 「そうかもしれませんな。…今更タークスの人員を増やしたい、というお考えはよく分かりません。いや、その前に、何故ツォンを放逐なさったのかをお聞きしたい」 ルーファウスは蒼い瞳を見開いてじっとヴェルドを見つめた。 「私が命じたことではない。あいつが申し出たから、受諾したまでだ」 ヴェルドは僅かに首をかしげる。一気に吐かれた言葉は整然とはしていたが、そこに含まれた感情は、ルーファウスには珍しく渾沌としたものだった。 あの時胸をよぎった感情を、ルーファウスは思い起こす。 それは紛れもなく───恐怖───だった。 そんなものは、彼の今までの人生において記憶にある限り感じたことがなかった。ウェポンの光弾がまっすぐ社長室めがけて飛来するのを見たときも、星痕症候群の証である痣を我が身に見つけたときも、恐怖を感じることなど無かった。 だのにあの時─── 血の滴る腕を押さえることもなくルーファウスの安全を確認したツォンを見ながら、この男はいつか、自分のために死ぬのだと思った。 それはきっと、そう遠くはない将来なのだろう。 そこにうち伏している女の骸と同じように、この男も自分の足下に斃れる日が来るのだと─── そのことに、ルーファウスは恐怖した。 そして、そんな自分を吐き気がするほど嫌悪した。 だからツォンが主任の職を辞したいと言ったとき、それは正しい解決だと思った。 近くにいなければ、自分を守って死ぬという可能性は低くなる。 目の前で彼に死なれることだけはなんとしても避けたいと───それはルーファウスが知った、初めての切羽詰まった思いだった。 渡りに船とはこのことだ。 自分からも危険からも遠ざけて、平穏な生活を送らせればいい。そうであれば、ルーファウスは安心していられる。 一瞬でそう判断した。だから、ツォンの申し出を許可したのだ。 しかし、彼の不在は思った以上の打撃だった。 ルーファウスはそれを忘れるため仕事にうち込まざるをえなかったし、タークスたちは混乱し不満を募らせていた。 そこに生じる齟齬はルーファウスを苛だたせ、いっそのことタークス全員を解雇してしまおうかとも考えるようになった。 だが、それは出来ない。 そうすることは、ツォンとの最後の繋がりをも断ってしまうということだったからだ。 「現在の情勢は、かなり安定してきてはいる。タークスの任務もかつてほど厳しいものでは無くなった。だが、逆に雑用は増えているんだ。たった三人では対処しきれない」 「ならば新しく部署を立ち上げられたらいかがです。なにもタークスである必要はないのでは?」 「それは逆だ、ヴェルド」 ルーファウスは視線をそらし、窓の外を見つめる。木々の緑に色彩られた、明るい空がそこにはあった。かつてのミッドガルには無かったもの───あの神羅ビル最上階からは決して見えなかったものだ。 「私は…」 言葉を切り、口を噤んだ青年をヴェルドは黙って待った。 窓から射し込む陽射しが金色の髪を輝かせる。出会った頃の稚かった面影がふと、脳裏を横切った。 「おまえには本当のことを言おう。私はタークスを解体したいと思っている」 ヴェルドは目をしばたたいた。 それに近いことを予想はしていたが、やはりはっきり言われると驚かざるをえない。 「それは…我々も失職、ということですかな」 「そうではない。だからこその新人だ」 「なる程…。人を増やし、任務を分散し、通常業務に近づけていくと」 「分かってもらえれば嬉しい」 ヴェルドは目を見開く。『嬉しい』などとはこの人らしくない物言いだった。 「何を面喰っている」 ルーファウスは笑う。その笑顔も以前に比べればずいぶんと明るく、否、それすらも演技なのかもしれないが───ヴェルドは眩しいものを見たように目を眇めた。 「まずは、主任代行としてディアナをよこしてくれ」 「イリーナの姉、ですか」 「そうだ。彼女は軍事学校の卒業生でカンパニーの生え抜きだ。タークスとしての経験も申し分なかろう。事務能力も高い。実戦だけでなく司令塔としても優秀だと思うが。シスネはおまえの補佐に残した方が良かろう」 「そうですね。即戦力というなら、やはり彼女ですな」 「当面はそれで行く。彼女をバックアップしつつなるべく早く新人を育成してくれ。それと」 「まだ何か?」 「おまえの娘はどうしている」 「は、フェリシア、ですか。…お蔭様で元気にしておりますが」 「ならば彼女も連れてこい」 「な、ちょ、どういうことですか!?」 珍しくもヴェルドが慌てた。娘のことは、彼の唯一の弱点だ。 ルーファウスは口唇の端をつり上げて笑う。 「マテリアの力を失っても相応に腕は立つのだろう? 私の護衛と身の回りの世話を頼みたい」 「え…、ま、待ってください」 「イヤとは言わないだろう?」 「いや、いやいや」 「三回も言ったな」 「いや、ち、違います、そうではなくて」 「ツォンがいなくなって、いろいろと不便を感じているんだ。レノはがさつで大雑把すぎるし、イリーナも似たり寄ったりだ。ルードを傍に置いておくと、後の二人を押さえる者がいなくなる」 「いやしかし、フェリシアとは…誰か他のタークスを」 「今更誰かを特別扱いしてタークスの結束にヒビを入れたくはないからな。安心しろ、ツォンの代わりに夜の相手をしろとは言わない。いや、それもいいかもしれんな。ヴェルド、おまえまさか私が娘婿として不足だなどとは」 「社長!」 猛烈な勢いでヴェルドが立ち上がると、がたんと激しい音を立てて椅子が転がった。 「なんか、揉めてるみたいだぞ、と」 ドアに耳を付けていたレノがイリーナを見上げて言う。イリーナにも、何かが倒れたような音は聞こえた。 「社長とヴェルド主任が喧嘩してるんでしょうか…」 胡乱な目をしてイリーナはドアを見つめる。 「いくらなんでもそれは無い、と思うぞ、と…」 言ったレノにも自信はない。 そのわけを二人が知るのは、数日後のこととなった。 「レノさん、この報告はいい加減すぎます。ちゃんとフォーマットに則って書いてください」 「ツォンさんより口やかましいんだぞ、と…」 以前にも増して切れ味の良くなった言葉と共に突き返されたメモリをレノは渋々受け取る。 「私はお留守を預かっている身ですから。きちんとやらないとヴェルド主任に叱られてしまいます」 「わかってるぞ、と」 いまいち意気の上がらないレノではあるが、きびきびした動作でデスクに戻るもと後輩の姿を見て目を細める。いいタークスになった、と思う。 彼女が来てから仕事がスムーズになったのは確かで、社長の指示は的確だったということだ。イリーナは最初こそ複雑な顔をしていたが、慣れてしまえばもともと一緒に育った姉妹である。そのコンビネーションは絶妙だった。 そして社長の背後に控えているのはヴェルドの娘フェリシアで、気づいたらずいぶん女率の高い職場になっていた。 かつて、新人たちで賑わっていた頃のような華やぎが戻ってきた。 社長もすっかり落ち着いて顔色も良くなり、苛々した様子も見せなくなった。 けれど───いや、だからこそレノは寂しい。 なんでアンタがここにいないんだよ、ツォンさん。 そんな男のことはもう忘れたと言わんばかりの社長の態度も、気に入らない。 侘しい気持ちをもてあまして、レノは席を立った。 「どこへいくんですか」 「タバコ」 軽く手を振って、ロッジを出る。 「報告、ちゃんとあげて…」 後方から声が追ってきたけれど、閉まったドアがそれを遮った。 ロッジの裏手───喫煙場所は建物の裏と相場が決まっている───に廻ると、先客がいた。 「ルード」 珍しくも紫煙を燻らせているのは相棒だ。 「レノか」 「一休みーだぞっと」 壁にもたれて煙を吐く。 「なあ」 レノの声は相変わらずいまいち冱えない。 「これで良かった、のかなっと…」 「…そうだろう」 「おまえ、ホントにそう思ってんのかよ、と」 「社長はお元気になられた」 「ツォンさんがいなくなったら、いきなりハーレム状態だぞ、と」 「女性は…いいものだ」 「おまーなあ!」 ぽっと頬を赤らめて言うルードに、レノは更に脱力した。諦めたように頭を振り、空を見上げて煙を噴き上げる。 「ツォンさん、どーしてんのかな、と…」 モニタの隅で、着信を知らせるアイコンが点滅する。 ルーファウスはそれをちらりと見て秘かに笑みを浮かべた。ファイルを開くことはまだせず、顔を上げて窓の外を見やる。 空は明るく澄んで緑の色はそろそろ夏の気配が漂う。季節は確実に移りつつ、日々を重ねていく。 知っているか? ツォン。 この星は丸く、大地は平らに見えて実は球面だ。 だから、離れていく一方だと思った道も、いつかきっともう一度交わるときがくる。 私が望み、おまえが願う限り、きっと。 それをこの手に掴むまで、私は決して諦めない。 この手が―― ――――――届くまで END ギャグなおまけ… |